明地峠(鳥取側)


■考察 Discussion

 「幻の国道」と呼ばれていた理由を調査すべく,峠田で聞き込み調査を行なったのだが,国道云々の以前に「県道じゃった」と言われて面食らってしまった.しかし,県道であったことは事実である.

 帰って調べてみると,昭和11年,この年の内務省告示第五百十六号によって岡山県道第二號に指定されたのが,明地峠の主要道としてのスタートだ.「岡山市ヨリ米子市ニ達スル道路」であり,主な通過地は吉備郡高松町,総社町,上房郡高梁町,川面村,阿哲郡新見町,菅生村,千屋村鳥取縣界.なお大正九年の旧道路法制定当時は,谷田峠を経由して根雨に向かう道が県道に指定されている.明地峠経由のルートは,県道でも,ましてや国道でもなかった.
 昭和28年の政令第九十六号によって,二等国道,今と同じ180号の指定を受けた.そして明地トンネルの開通は1974年(昭和49年).その間,あの狭い峠が国道として使われていた・・・かというと,そうではないらしい.このへんに「幻の国道」と呼ばれた所以がある.

 資料によれば,二級国道の指定を受けてから明地トンネルが開通するまで,花見(現千屋花見)あるいは門谷までしか車が入れなかったらしく,峠は単車がやっと通れるほどの砂利道だったという.では峠の石垣は,と調べてみると,明治二十五,六年ころに荷場車が通れるよう改修したというから,この頃の産物のようだ.荷場車が通るくらいならすぐに車道としても良かったのではないかとも思うが,前述のように大正9年に谷田峠が県道の指定を受け,そのうえに,谷田峠の下を抜ける鉄道が大正の終わりに完成している.当時新見北線と呼ばれたこの路線の全開通は昭和3年.明地峠が車道として成熟するはるか以前に,物流の動脈がよその谷を走っていた訳である.これでは忘れられても仕方があるまい.

 そのくせ,道路地図には国道の指定が反映されていたといい,あたかも車が通れるかのような錯覚を与えた.何も知らないドライバーは,花見までやってきて,通行止と聞いて引き返す.そんな光景が20数年間繰り返され,やがて「幻の国道」と呼ばれるようになった.結局,明地峠の切通は,一度たりとも車を通すことなく,旧道化したのであった.

 順序がバラバラで申し訳ないが,峠名由来譚も記しておこう.後醍醐天皇配流の折,この峠にさしかかった時に夜が明けたという.「夜はほのぼのと,明地が峠か・・・」そんなつぶやきがあったかどうか,それ以降この峠を「明地峠」と呼ぶようになった.なお地元では「明地峠」ではなく「明智峠」で通っており,また元禄十四年に備中松山藩が作成した絵地図でもこの字が使われているという.地形図の「明地峠(明智峠)」という括弧書き表記は,そのあたりの事情を考慮したもののようだ.

■参考文献 References

日本の道』の「道路法令集」(松波成行氏)

『おかやまの峠』(石田寛監修,福武書店,1980)

『峠の今昔(県境編)』(因伯昔ばなし第14集,鳥取民話研究会,1988)

備北民報』の「紙上連載・寄稿のページ」(備北民報社)


 

 

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