|行政:岐阜県高山市清見 標高:940m
|1/25000地形図:六厩(高山16号‐4) 調査:1996年10月,2008年7月


 有巣峠.あっそとうげと読み,かつての高山街道()の峠であった.「飛騨せせらぎ街道」と名付けられた県道高山・八幡線と高山街道はほぼ一致するのであるが,この有巣峠と西ウレ峠の東にある竜ケ峰のあたりで外れる.県道の羊腸道の手前にある坂下と,峠ふもとより一つ下の集落・巣野俣とをつないだ峠である.つまり県道は川に忠実に沿って作られているが,古い道は距離的近さを選んでいたということだ.古い地形図には一部点線道の実線道として記載されていたが,新しいものでは消滅してしまっているかも知れない.1996年時点では完全な廃道であり,私が人生で初めて峠泊をした峠であった.

 ここは私が書いたツアー記録からそのまま抜粋しよう.2日にまたがっているために変な形式になっているがご了承願いたい.

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  高山に正午すぎ到着。まずは駅近くのスーパーで買いだし。フロントバックに財布を入れたまま買い物をするというポカをやらかすが、この時買った巨大バウムクーヘン切り残し300円がのちのち役立つことになる。金光教大寺院を横目に見つつ県道で西へ。早や紅葉が美しい。天候にも恵まれ、ここまでは爽やかそのものである。で、坂下の集落に到着。それらしき道に入る。

▲有巣峠北側・・・つぼる。信じられないくらいにつぼる。とっつきはちょっと荒れたダート程度だが、やがて薄が道をふさぎ始める。真っ白の綿毛が分け入る度に舞い上がる。セイタカアワダチソウも多くなる。サイドはもちろんフロントも僕自身も真っ白になる。地図にあるはじめの折り返しの地点で一度コースアウト。本来の道は「まさかこっちじゃないやろ」と思ったまさにその道であった。薄の原である。ここまでもたいがいな道であったのだが、本当のつぼりはここからが本番。道の真ん中から生える木と足に絡まる背の低い灌木。加えて道の崩壊。明らかに、地形図にある点線道以上の廃道がこの道の大部分であった。しかし道幅だけは確かにあり、それが故に引き返すタイミングを逃した。数十分格闘した結果、完全につぼったことを認識した。道は消えた。進退窮まる。ここでサイドや荷物を外して行かざるを得なくなる。  半分絶望感で見上げた山の斜面に電信柱と電線が見えた。道沿いに電線が通っているのだろうという憶測のもと、あたりをうろうろしてようやく道をみつけた。というよりも、今自分がいるこの藪がすなわち道であったのだった。ひいひいいいながら荷物を運ぶ。倒木を越え、蔦に無駄な抵抗をし、どろどろの地面に足を取られ、熊笹の生い茂る笹原を越えて、ほうほうのていで峠へたどりつけた。切り通しの峠にはなぜかここだけが草が生えていず、ぽっかりと空間が開いていた。峠には水源涵養区の看板があり、これに有巣峠の文字が読みとれた。これでも村道らしい。自転車を取って戻ってきた頃には、東の空に一番星が瞬き始めていた。仕方なくここでとまることにする。

 もちろんこんな山中で一人でテン泊するなんて初めてのことである。しかし、きっとアドレナリンのせいであろう、ちっとも惨めさとか怖さといったことを感じることはなかった。逆に、峠道をふさぐように4テンを張り、ランタンの明かりのもとで飯を炊きカレーを食うということが愉快で愉快で仕方なく、開放感を存分に味わうことができた。ランタンの明かりを消せば、EPIの青い炎と瞬く星空。耳をすませばEPIの燃焼音と朴の葉の落ちる音だけが聞こえる。食後はバウムクーヘンでささやかなコーヒーパーティー。峠からの見上げれば、ランタンの明かりにも負けない月明かりが煌々と僕を照らしていた。今考えれば、この一夜が僕のその後のサイクリングスタイルを大きく規定するものであったようだ。

31日
 有巣峠→西ウレ峠→パラソル峠→苅安峠→宮峠→JR高山駅⇒JR富山駅⇒北陸線:夜行列車

 朝4:00頃目が覚める。朴の葉の落ちるがさがさというが目覚まし。昨日ちらと見たときには、峠南もやはり笹藪が続いていた。万一のこと—全く道がなくなって抜けられない—を考えて、飯を食ってすぐ下ることにする。

▲有巣峠南側・・・さらにつぼる。笹原はまだ楽に抜けられた。そこから先、道はまるで雑木林の如くになる。展望は利くようになったが、まだ暗いせいもあって山しか確認できない。昨日のつづきの電信柱だけが頼りだ。これに登って周囲を見回したり、あたりをうろついたりするが、結局よくわからない。電線の入っていくその前方の雑木林に意を決して突っ込む。激しい格闘の末、道らしきものがターンしてさっき登った電信柱の下(崖やと思っていたところ)へ行っていることがわかった。まさに燈台元暗しである。少しは楽になった道をひきずりながら行くと、本当に突然、整備された山道に出た。さっきの103倍はマシな道である。自転車にまたがって行くこと数百mでようやく民家の裏手に出た。た、助かった・・・。

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実際のところ,秋のこの道(飛騨せせらぎ街道を含む)は紅葉の美しい森である.ぜひ行ってみてほしい道のひとつだ.ただし,有巣峠へ行くのならば『ナタ必携』である.


高山街道という名称は岐阜側(郡上側)から見た時の名称で,高山からは郡上街道と呼ばれた.旧版地形図にも(ちょうどこの峠の区間に)郡上街道と記されている.この名称は明治27年刊の「飛騨国小地誌」にも用いられている.

「高山ヲ中心トシテ四境ニ通スヘキ要路四条アリ、益田街道、郡上街道、信州街道、越中街道是ナリ.此四道中、信州街道ヲ除クノ外ハ、河流ニ沿ヒテ開鑿セシモノナレア、屈折頗多シトイヘトモ、概シテ平坦ナリ」
「郡上街道ハ清見村ヲ経テ美濃国郡上郡八幡ニ通スル要路ナリ、道路ノ平衍ナルコト益田街道ニ譲ラス、独巣ノ俣ノ阪路ハ頗ル険悪ニシテ、車馬ノ行通ニ便ナラス」

 ここでいう「巣ノ俣ノ阪路」がすなわち有巣峠である.つまり有巣峠は明治時代からの県道路線であった.

 清見村史によれば明治25年に巣野俣峠(有巣峠)の改修請願がなされているが,これが実現したかどうかは不明である.明治29年に西ウレ峠南側の麦島地区が改修されその経費も計上されている.その後昭和6年から9年にかけて坂下地内の改修工事が行なわれ,この時に峠の車道化が完了したようだ.清見村発行の「きよみ風土記」という本には「昭和9年に初めてトラックが通った」という記述もある.

 しかし,昭和16年には峠を避けて川上川に沿う道(坂下〜巣野俣)が作られている.峠がバイパスしていた川上川沿いの区間は屈曲の激しい深い淵の続く区間であり,長く交通路には向かなかったのだ.

 以上,2008年の夏に再訪した時調査した峠史である.峠の様子などは日本の廃道第27号の拙稿を参照されたい.峠の東側にはトラック輸送がなされていた頃の旧車道が美しい廃道となって残っている.

 

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