万世大路(考察・参考文献)


■考察 Discussion

 万世大路の歴史は「背景」の項でほぼ語り尽くした。また現在の様子も多くのWebページで語られ詳細な調査がなされている。ここではその他の雑多な情報を箇条書きすることでお茶を濁しておく。

・万世大路の開通当初、この新道の路線名は「羽州街道」であった。これは三島と福島県令の連名で内務省に上申されたものだが、翌明治15年に勅令によって「万世大路」と改められた。いわゆる「明治天皇から名前を賜った」という形だが、米沢市史では面白い史実を伝えている。これより前の明治11年、第十大区の区長であった斎藤篤信という人物が、新道の名称を書経の「万世永頼」より採って「万世新道」にしてはどうかという申し出がなされているという。これを参考にしたかどうかは定かではないが、少なくともある一人の人物の胸中には、工事の端緒からすでに未来永劫に残れよかしという願いとそれを表す名前があったのである。ちなみに 「万世永頼」の文字は書経から採られていると記したが、その一節が「地平天成、六府三事允治、万世永頼惟汝功」である。そう、今の年号・平成の文字も、この一節から採られているのだ。

・明治の二ツ小屋隧道の工事では、破砕帯に悩まされ、大阪鉄道局で土石留法を学んだと記した。なぜここで工法を学んだのか、はっきりした理由は解らないが、当時の隧道建設技術は道路よりも鉄道において進んでいたことは疑われない。明治4年に完成した日本最初の近代的なトンネル・石屋川隧道は、大阪〜神戸間の鉄道のためのものであった(これをきっかけとして「工技生養成所」という技師養成所が大阪停車場内に設立されている)。さらに、この隧道は西欧の技術を導入して作られたものであったが、同12年には日本人の力だけで664mの鉄道トンネル・逢坂山隧道を京都〜大津間に完成させている。二ツ小屋隧道の開通が明治13年10月だというのを考えると、この逢坂山隧道のことや工技生養成所の話が耳に入っていてもおかしくないだろう。

・栗子出張所にある栗子隧道碑の隣には、東西栗子トンネル工事での殉職者を弔う慰霊碑がある。御影石で囲まれた何でもない一区画に見えてしまうが、その寸法には大きな意味が込められている。詳しくは「栗子峠にみる道づくりの歴史」参照。ただしこのなかで、慰霊碑の横幅だけは884mmと記されているだけで何を指すものか記されていない。この数字は旧栗子隧道の全長に近いが公称は870mだ。あるいは標高なのかも知れないが、いずれにしても現国道の工事とは関わりが薄い数字であるので確信は持てない。

■参考文献 References

  • 栗子峠にみる道づくりの歴史,吉越治雄・東北建設協会,平成11年(1999)
  • 山形県史,山形県
  • 米沢市史,山形県,昭和58年(1983)
  • 日本の近代土木遺産 現存する重要な土木構造物2000選、日本土木学会、平成13年(2001)


 

総覧へ戻る