■考察 Discussion 報告者はこの後,偶然にも町の郷土史家Aさんに出会うことができた.この方の話と青垣町誌の記述から,千原峠の歴史についてを記したい.
そして,道すがらの道標の多さも,この道が公に使われていたことを物語る.報告者が辿った道にも,峠から末集落へ出る道にも,その麓に道標を兼ねた地蔵様がある(左は千原側麓の地蔵様.右が末集落の分岐にある地蔵様2体).前者には別に一つの道標もあり,念の入れようというか丁寧さというか,そんな感覚まで感じられる. 話を伺ったAさんの幼い頃は,千原から権現さまの秋祭りへ向かう遠足が小学校の定例行事だったという(50〜60年前?).同様に,遠阪の子どもたちが千原峠を越えて矢取神社へ詣でていた.そして,峠越しの婚姻関係も多かった.Aさんの奥さんも,Aさんの母親も遠阪の人であるという.千原の側からは遠阪峠,遠阪からは逆に千原峠と呼ばれていることも,常の峠によくある話である. 昭和30年代には車道を通す計画もあった.この方が音頭をとって,改修期成同盟みたようなものもつくられたという.この峠道は「千原遠阪線」という名称で呼ばれるほどに知られたな道であり,車道開削は長い間の課題であった(青垣町誌にも「千原遠阪線」の千原峠として記されている).しかしながら,土地の所有者が田畑や植林地が減ることを嫌って,計画は頓座してしまった.ではあのトンネルは,と尋ねると「それ以前からあった」という答え.「そりゃあもう,昔からあったわなぁ.見た目より多くの人が,あのトンネルを越えたんや」とも話してくれた.なお,2004年現在の道は,つい最近に木材の切り出しのためにつけられたものという.確かに,峠の千原側東手の斜面は伐裁の直後であった. 事の序に,現在見られる千原峠の隧道は以前のものより低くなっているらしいことも付け加えておこう.正確な高さは尋ね損ねたが,確かにあの高さでは馬も通れまい.
報告者はこの峠で,もう一つの出会いをしている.このプレートは峠北側の2体の御地蔵さまの間に置かれていたものだが,以前は稜線上にあったようだ.こう刻印されている. NIPPON ZYUDAN 分水嶺辞典をメンテナンスしている報告者にとって,この発見は「スワ一大事」だったのだが,調べてみれば何のことはない,島田氏の他のページに「京都みさやま山の会」という会のものであることが記されていた.この付近には多いもののようだ.それにしても,分水嶺倶楽部の近藤氏がこのようなプレートを発見したことを記しておられたはず.あれもKMACではなかったか.そしてあれは,どこの山だったか.
■参考文献 References
■謝辞 Acknowledgement 千原在住の郷土史家・Aさんに感謝.突然のお邪魔にも関わらずさまざまな事を教えて頂いた. |
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