伏 | 木 | | | 行政:大分県日田市 | 標高:390m |
峠 | ■ | | | 1/25000地形図:深耶馬渓(中津16号-2) | 調査:2002年9月 |
■背景 Background
江戸時代17世紀前半に作られた「豊後國古城蹟並海陸路程」によれば,天領日田から伏木を抜けて豊前に至るルートは「豊前國宇佐宮路」という名前であった.当時の日田の中心であった永山布政所から,中津城,宇佐神宮へ向かう代官道であると同時に,東国へ登るための道,塩や魚といった海の幸が運ばれてくる道でもあった.そんな道の最難所が,森藩一之瀬村(現・日田市市ノ瀬)から伏木村(現伏木)にかけての登り道・伏木峠であった. この難所を改善すべく,市ノ瀬から伏木にかけての山道に石畳が敷かれたのは嘉永三年のこと..その石畳道は今も残り,「歴史の道」にも指定されている.本報告書では,旧国道212号でもある伏木の車道と合わせて報告したい.
■調査 Experiment
山国町の側から伏木に向かうには,国道212号にかかっている「→伏木峠」の看板を頼りに右折する.旧国道212号だが現在は一般県道720号として利用されている.杉林を抜けて行くと,大きな谷の側面をぐるりとなぞって進む車道が見渡せる.出羽・茸山の集落だ.出羽にはこの車道の開通に尽力した当時の県議会議員・三雲直衛翁の胸像もある.
そのまま県道を進むと,小学校を過ぎた先に伏木公園.入口付近に案内看板がある他,キャンプ場としても利用できるらしく,水道設備のある東屋なども整備されている.石阪道へはここから分岐し,民家と民家の間をすり抜けていくような狭い道で向かうが,最後は畑の畦道や民家の庭を通らなければならない.それと知っていなければ迷うこと必至の道である.仮にここで迷ってしまっても,現県道が石阪道の中程を横切っているので,ここから峠道に入ることも可能だ.
1.2kmの石畳道はそのほとんどが往時そのままと言っていいほどよく残っている.特にピーク直下のすらっと伸びる石坂,県道より下のきれいなつづら折れは見事なものである.また人の踏む中央部には切り揃えた石を敷き,両端には丸みを帯びた自然石を配しており.特に峠直下は石の使い分けがはっきりわかる.苔蒸した中央の石と白いままの両脇の自然石が形作る緑と白の帯が美しい.さすがに自転車で乗って下るにはデコボコし過ぎだが,道の雰囲気を楽しむためにも自転車を降りて行くほうが正解であろう.
市之瀬に近づくにつれ,辺りは竹林へと植生が変わっていく.枯れ散った笹の葉と道とが織り成す光景がまた風流だ.道の脇に殿と転がる巨石も,わざとそこに置いたかと思うほど風景と調和している.この峠を登って耶馬渓へ向かった文人墨客たちも,あるいはこの眺めに期待を膨らませつつ登って行ったのかも知れない.
■考察 Discussion 伏木の峠道に石畳を敷いたのは,日田隈町の掛屋・京屋山田作兵衛常良という人物.私財を投じ,周防国から二人の石工を呼び寄せて作らせたという.実長1200余m,16の切り返しで登る石畳は,段と段の間を長くとって牛馬も行き来できるよう配慮したものだとか.この「石阪」の改修を記念する碑が行程の中程,県道と交差する辺りに建てられている.完成の翌年,広瀬淡窓の撰による漢文の碑である. 日田〜中津間のルートはその後,明治18年になって大石峠(おしがとう)にトンネルが完成し,馬車や人力車が通れるようになった.一方で伏木を通る車道は大正4年に完成している.大石峠の拡張改良でなかった理由は,どうも三雲が出羽出身であることと関係があるようだ.国道212号として機能したのもこちらの道であり,昭和50年代に奥耶馬トンネルと花月バイパスができるまで,日田と中津との交流を一手に引き受けていた.それが再び大石峠の下を潜るようになったのも,何かの因果のような感がある.
■参考文献 References
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