|行政:長野県楢川村〜同南箕輪村(飛地)標高:・1523m
|1/25000地形図:宮ノ越( 高山4号-4)調査:2002年7月


 峠の両側が登山道であった姥神峠に対し、この権兵衛峠は車道で峰を越えることができる。ただし、東側の車道は仮国道みたようなものであるらしく、国道の指定は麓で切れている。これとはす違いになる形で、旧権兵衛街道は残っているのである。


 姥神峠道が降りてきた羽渕の集落から奈良井川を遡る。2002年に報告者が訪れた際、この区間は全面的に新道建設中であり、谷を越え山裾を削り、時には山腹に近い高みにトンネルを穿ちつつあった。すでに消滅してしまっている番所、、萱ヶ平らの各集落を越えたあたりから、道はようやく静けさを取り戻す。
 が、こちら側の峠付近の地形は緩やかなはずなのに、何故か急勾配区間が多い。峠直下は特に「とりあえず最後まで2車線で頑張ってみました」とでも言いたげな無理のあるカーブばかりが続き、道的にも美しくない。カーブ標識も御覧の通りのねじれ方である。


 旧権兵衛峠へは峠直前のカーブの付近から向かうことができるが、報告者の個人的な意見としてはそのまま車道ピークまで行き、そこから旧峠へ向かう道をおすすめしたい。途中の尾根からは伊那谷を挟んで八が岳の展望が素晴らしいからである。

 

 

 

 

 旧峠には権兵衛氏を讃える碑やさまざまな歌碑と並んで分水嶺の碑もある。奈良井川はのちに信濃川となって日本海側に流れ込む川であり、天竜川水系の北沢川との間で大分水界を為しているのだ(言い忘れたが、奈良井谷をはさんで反対側にある姥神峠も、やはり中央分水嶺の峠である)。
 あたかも峠にはきれいにしつらえられた水場があり、その手水鉢からとくとくと流れ出る水は、分水嶺を東へ流れ、北沢川の源流となっている。この他、峠から駒が岳へ向かう登山道が伸びているが、実はこれも分水がらみの史跡なのである。


 そのそばにある解説看板によれば、明治のはじめに駒ヶ岳の西麓(つまり日本海側)から伊那谷(太平洋側)の中条・上戸集落へ水を引く水路が作られたのだという。伊那谷の高台にあったこれらの集落は灌漑用水の不足に悩まされており、その西を流れる北沢川も、水利権を持たなかった彼らにとっては手の届かぬ存在であった。そこで考えられたのが上記の人工分水だ。松本谷の村々と協議し、水を引く許可が得られたのが明治6年。手作業手弁当で工事に当たり、奈良井側の最上流から水を引く水路を完成させたのが明治9年。今は駒ヶ岳登山道になっているその水路跡をたどっていくと、5分ほどのところにその名残である「水枡」が復元されている。畳一畳分くらいの大きさで深さは10cmほど、木で設えられたその枠に山から流れてきた水を引き入れる。ここに入った分だけを北沢川へ流し、あふれたものはそのまま奈良井の谷に戻した。さらに北沢川の下流にも同じ大きさの水枡を設置し、上で引き落とした分だけをここで取水したわけである。もちろん厳密には同じ水量でなかったと思うが、人を納得させるにはなかなかのアイデアだと思う。


 さて、峠道に戻ろう。伊那谷への下りは、姥神峠ほどではないにしろ快適に乗って行くことができる。峠の谷の急斜面をジグザグとつづらを折って高度を下げ、左となりの谷との尾根を往復し、最終的にそちらとへ移る。道の付け方は大変複雑だが、今でも牛馬が通れそうな幅広道で、特に谷の上のトラバース路は権兵衛街道のハイライトといってもいい見事な風格がある。国道へ出る直前はやや急で荒れ気味だが、全体として90%、フラットハンドルのMTBでは95%の乗車率といったところだろう。最後に大きく登り返して、道路工事の前線基地に出てくる。

 この峠も姥神峠に同じくトンネルで国道を通すらしい。2002年現在、総延長4000余mの半分強、2800mほどができているとの事を、報告者は帰りの国道19号で知った。

参考文献

  • 峠をあるく(伊藤桂一、日本交通公社、1979)


 

 

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