八草峠(2)/峠〜岐阜県坂内村



 この車道の八草峠の下敷きとなったのは,戦後間もなくに地元の有志によって作られた林道だ.林業開発のため,主要産業であった炭の搬出のため,そして日用品の物流のために車道を作りたいと考えた村人は,昭和22年,業者に林道建設を委託して道づくりに着手した.しかし物資の乏しい時期でもあり,工事は思うように捗らず,業者は途中で工事を放棄してしまった.困った村人は自力で道作りをすることを決意,炭焼仕事の手を1年間休め,ツルハシで道を削り,畚で土を運んで,双方が峠まで9km,幅4mの立派な林道を作り上げたのだ.峠道が開通した昭和28年,当時の杉野村村長と岐阜県知事は峠で堅く握手を交わし,国道昇格を誓いあったという.その願いが実ったのが,昭和45年4月のことであり,碑はそれを記念するものなのである.


 

 

 報告者はこの峠からの美濃側の眺めが好きだ.わずかずつ濃度を変えながら,山並みがどこまでも続いている.東に越える時は行く手に待っている道を想像し,その果てし無さに胸を打たれた.僻地に赴任する公務員が,あまりの道の険しさに辞職を決めたという「辞職峠」の由来をいつも思い出す.西に越える時は安堵を感じながらも,辿ることのなかった山のひだの一つひとつが名残り惜しくなる.あの谷はどんな谷だったんだろう.どんな家が建っていて,どんな生活があるのだろう.そしてその奥には,どんな峠があるのだろう,と.


 

 

 

 

 峠のお地蔵様のもう一段上には,「チャレンジ・ザ・八草記念」「八草峠まつり記念」などと書かれた木柱が添えられた植樹がある.地元の小学校の行事であったらしいが,96年頃を最後に新しい碑は増えていない.年を追うごとに朽ちて行く木柱が哀れだが,一方の植樹が元気に成長していることを嘉とすれば充分であろう.



 岐阜側の道も,同じように1〜1.5車線のワインディングがトンネル口まで続く.開け具合いはこちらの方が勝っているので,登りで眺めを楽しみたいところだ.トンネルの岐阜側出口を右すれば,坂内川に沿ったブナ林の道.進むほどに左手が開けてきて,カーブの先に青空と対岸の山がありありと迫ってくる.その眺めに吸い込まれてしまいそうだ.その一方,谷の奥では,風化の進むアスファルトを苔が覆いつつある.
 道筋を登りの印象で捉えれば,谷の向こうの見上げる高さに道の続きが消え,そこまで行けばまた同じ光景が繰り返されるという例のシチュエーションを2度繰り返す.最後にそれの一際大きいものが待ち構えていて,登り切れば峠の鞍部へのトラバースだ.赤い前掛けのお地蔵様が遠くからも見える.


 おっと,その前に,2004年8月時点時点の旧道は岐阜側に巨大な崖崩れが残っている.写真のごとくなので,自転車かバイクしか抜けられないことを注記しておこう.

 

 

 


■考察 Discussion

 車道以前の八草峠は,現在の位置から4kmほど北にあった.滋賀側は登谷がその峠道に当り,登谷を奥まで詰めて,尾根に上がり,土蔵岳の南側を越えるというルートであった.藩政時代には公道として用いられ,近江藩主が手づから植えたという松がそびえていた.伏木貞三の「近江の峠」によれば,この松は車道の開通後まもなく枯れてしまったという.「自分の役目が終わったのを悟ったんじゃろうなあ」と語ったという地元人の話が印象的だ.二代目が植えられたとこの本には記しているが,ナカニシヤ出版の「近江の山旅」土蔵岳の項を立ち読んだ範囲の知識で言えば,今はそれも伐裁されて無くなってしまったようだ.

■参考文献 References

  • 近江の峠(伏木貞三,白川書院発行,1972)
  • 道(揖斐郡教育会,1983)
  • 日本の近代土木遺産 現存する重要な土木構造物2000選(日本土木学会,2001)


 

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