旗返峠(其の二・1997,3,)

 翌年の春は、まだまともなカメラを手に峠へ向かった。トンネルの写真を撮ることと、峠の位置を再確認することに主眼を置いたため、自転車は宇目町側の隧道口に置いて、空身で登峠する。

 トンネルは相変わらずの崩壊度で待っていた。内部が崩れていることに加えて、トンネル上部からもすさまじいばかりの倒木。あるいは内部に土砂が流入したため、その上にあった木が「篩にかけられた」のかも知れない。

 ここから昨年と同じようなルートをたどって尾根に上る。ただし今回は自転車がないおかげで、杉林の下をスムーズに登れる。あたりを注意深く見回しながら登るが、こちら側の峠道はやはり判然としない。地形図では尾根筋を登る道であるはずだが・・・。

 といううちにもう峠に出てしまった。昨年と同じ場所である。三重町へ下る道も、以前の通りにここから降りている。じっくり観察すれば、写真の向かって右手からくるりと曲っていくようだ。ここが峠なのだろうと安堵する一方で、宇目町側の峠道が見当たらなかったことがまだ気がかりだ。よって峰づたいに少し歩いてみることにした。北東の側はすぐに崖に近い急角度の斜面となるため、開けている南東方向へ向かう。
 どこの尾根筋でもそうかも知れないが、さほど歩きにくいというものではなかった。自然に育ったと思われる不等間隔の杉の間を縫うように歩いて行く。これといった鞍部もなく、だらだらちまちまと登り下りを繰り返していくだけだ。数百mほど行った所でこの状況は変わらないため、引き返しながらもう一度調べた。
 結局、峠らしき峠もなく、三重へ道が降りるあの地点で正解のようだったが、一つ面白い発見をした。何気なく踏み越えた土の塊が、土手を形成していたのである。

 よく見ると、その土手は馬蹄形とでも言うべき丸みを帯び、三重側の谷に張り出すようにして一角をとりまいていた。高さといえるほどの高さはないが、内側は人工的に平に均されているのは明らか。縁からは三重側の谷を見下ろせる。

 西南戦争の際に作られた土塁ではないかと、報告者は思う。官軍は三重側から攻め上がった。守る薩軍は、これを防ぐために三重側を向いた土塁を築いただろう。土塁というほどの高さはないものの、百年近い歳月が削り落したとしたらこの程度になるのではないか。内側に生えている木も弱々しく、樹齢何十年というような大木はない。


 第二回目の調査で以上のような発見があったものの、これに対する報告者の想像は未だ立証されていない。恐らく永遠に立証されないままであろう。むしろこの隧道に関することのほうが、容易にわかるに違いない。冒頭で引用した大分合同新聞の記事では、隧道はおろか車道のことにすら触れられていない。従って、早くとも昭和52年(1977)以降にこの隧道が作られたはずである。それ以降平成8年(1996)までの19年間に、車道が作られ、隧道ができ、そして崩壊した。この短期間に一体何が起こったのであろうか。コンクリートブロック積みという工法も、実は珍しいものではないか。報告者はその辺りを追試したいと考えながら───冒頭で触れたように───6年も経ってしまっている。

参考文献

  • 角川地名大辞典44 大分県(角川書店、1980)
  • 大分合同新聞夕刊連載『峠』第64回(大分合同新聞社、昭和52年11月16日付)


 

 

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