畑野浦隧道(考察・参考文献・謝辞)


■考察 Discussion

 蒲江町史によると,畑野浦隧道はちょっと興味深い出自譚を持っている.隧道の竣工は大正11年と古いものの,当初は人道隧道であったらしいのだ.

 佐伯から蒲江へ向かう道は,大正までは入津峠と呼ばれた峰越えの徒歩道,いわゆる「兎道」であった.むしろ海上交通が発達していて,大正3年には蒲江湾に大阪の商船が寄港し阪神間とのつながりが生まれるなどしている.話を伺った教育委員会の方も,蒲江から佐伯に向かう船便が子どもの頃まであったことを懐かしそうに語ってくれた. 県南の道路網が発達し出すのは,大正5年に鉄道の日豊本線が佐伯まで延びてから.大正9年には佐伯〜蒲江間が県道の指定を受け,それがきっかけとなって大正11年,畑野浦峠の下に隧道がほげた───大分弁で穴が開くことを「ほげる」という.懐かしい響き───.標高差にして一挙に100m近く低くなり,人の行き来や海産物の運び出しが大いに便利になったが,当時はどちらも谷川を沿う道で,かなりの急坂を歩いてトンネルに達していたという.現在の地形図で言えば,畑野浦トンネルのふもとから北西の尾根を登って行く破線道が旧旧峠道.直進して隧道に向かっていた旧峠道は,地形図から抹消されている.

 始め報告者は,大正11年竣工と聞いてスワと思った.近代土木遺産2000選にある道路用コンクリート隧道の初出は,大正12・13年頃に出来たという東京の本村隧道.もし現在ある畑野浦隧道のコンクリートポータルが当時のものであれば,それを上回る日本最古のものとなる.という話を教育委員会の方にぶつけてみた.拙い私の話に興味を持ってくれ,「調べてみましょう」と言って下さったものの,何のことはない,資料にちゃんと「車こそ通れなかったが」とあるではないか.人道ならば大がかりなコンクリートポータルを作る必要性は薄い.ちょっと勇み足だったようだ.

 町史には旧国道の車道がいつ出来たかまでは記されていない.松波氏の「道路法令集」を見る限りでは.次にこの路線が現れるのは昭和49年の国道388号の指定であって,昭和11年の内務省告示による府県道の指定からも外れている.ただ蒲江町のこのページによれば,国道に昇格する直前は県道延岡佐伯線であったようだから.戦前〜戦後にかけての時期に再度県道指定を受け車道化されたのであろうと思う.

 大分県の県道といえば,松波氏の道路法令集IIのうち,大正9年の県道指定についての告示が欠けている.出身県でることもあって調べてみたのだが,県の公文書舘にあるはずの県報は丁度この年の4月1日以降が欠落しており,それを知ることができなかった.もしやと思って県の土木局に問い合わせてみたが,やはり資料はないという.失われた大分大正県道.畑野浦隧道がその一つであることだけが判っている.

■参考文献 References

■謝辞 Acknowledgement

 資料を提供下さった蒲江町教育委員会,県道についての問い合わせを受けて下さった土木局道路管理課の方に感謝.早とちりで済みません.


 

 

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