円山隧道(考察・謝辞)


 まず,隧道がいつ作られたかについて考えなければならない.


 

 左は明治42年測量の陸測図・広根.当然のことながら円山隧道は描かれていない.右は大正12年修測量・昭和2年鉄道補入.ここには龍化隧道とともに円山隧道の記号が見える.両者の間に大正12年修正の1枚があるが,鉄道線路以外は後者と同じであろうと思われるので,少くとも大正12年までには円山隧道の位置に「穴」があったことは確実だと言える.
 一方で,大正5年竣工の龍化隧道の竣工記念碑には円山隧道のことが記されていない.龍化より先に円山隧道が作られていたとしたら,何か一言あっても良さそうなものである.従って,大正5年以降,12年までの間に竣工,ということになるのではないかと思われる.

 さらに絞り込むならば,この路線が大正9年(1920)に府道福住池田線に指定されていることに注目したい.この頃に道がもう一度整備され,隧道が穿たれた可能性を考えてもいいだろう.確実な証拠ではないが,推測の根拠くらいにはなるはずである.

 だが,コンクリートで巻かれたボールトと石+コンクリートのポータルが当時のものであるかどうかは疑わしい.現存最古の道路用コンクリートトンネルは徳島県の松坂隧道であって,大正10年竣工とされている.もし今見られる石+コンクリートのポータル&ボールトが当時からあったならば面白いことになりそうなのだが,資料がないため何とも言えぬ.また扁額に竣工年が刻まれていないことも気にかかる.当時コンクリート巻きの隧道は珍しかったはずであり,そんなものなら竣工年を刻んでいてもおかしくはないはずだからである.
 特に,ボールト全面が場所打ちコンクリートであることは築造年代の新しさを感じさせる.コンクリート巻きを行なう場合,拱架工と呼ばれるアーチ型の「型」を設置して,そこと壁との間にコンクリートを流し込んでゆくが,アーチの根本付近はコンクリートの自重でうまく詰まってくれるものの,頂上付近はきっちり詰めることが難しい.そこである程度の高さまではコンクリートを打って,残りの短いアーチをコンクリートブロックで仕上げるという工法が広く行なわれていたという.円山隧道のコンクリートボールトが大正頃のものだったら,そんな工法であったほうが自然ではないだろうか(とはいいつつ,松坂隧道は全面場所打ちであったらしいのだが.大正13年竣工の鈴鹿隧道,同14年の百瀬川隧道などはコンクリートブロック巻きであった).

 扁額があるのに竣工年がない,というのは,大分県の旧隧道に多い.このことと関連して思うのは,ひょっとしたらこれは元あった素堀の隧道を巻き直し,その工事で新たに扁額がつけられた場合を示しているのかも知れない,ということだ.自分がそんな工事をする立場だったら,元の隧道の竣工年を刻むべきか,それとも新坑門の竣工年を刻んで良いものか迷うだろう.だったら名前だけを刻んで掛けておけば無難だ.円山隧道もそんな隧道だったのではないか,などと空想に空想を重ねてみる.

 折角なので,兵庫県の道路課に問い合わせた際に頂いた資料も紹介したい.上図は新道の建設に伴って作られた設計図(横断図)の一部である.かつての円山隧道───「園山」になっているのはご愛嬌───,龍華隧道がしっかりと記されていて,円山の標高は約130〜135mといったところか.また興味深いことに,この地図には現在の湖面沿いの道が記載されていない.恐らくトンネルや橋の建設のために作られた作業道だったのだろう.ずっとあの道が旧国道だと思っていた報告者にとっては目から鱗であった.
 もう一つ貴重な情報として,あの扁額を移設した作業を行なったのは道路課ではなく,看板設置も含めて外部に委託したものということも伺った.依託先は今となっては不明であり,かといって一番あり得る教育委員会もご存知でなく,誰が何のために建てたのかすら不明になりつつある.ともかく県の職員氏は現地に赴いて写真を撮って下さったりなど多大なご協力をいただいた.ここに改めて感謝する次第である.

 結局,多くの謎を秘めたまま,円山隧道は再び湖中に沈む.次に顔を出す頃には何か解っているといいのだが.

■謝辞 Acknowledgement

 近畿地方整備局,近畿地方整備局の道の相談室担当者氏,兵庫県道路課,川西市教育委員会の各位に感謝.そして調査に参加して下さったお三方にも.


一庫ダムの水没隧道

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