■考察 Discussion

 後は余談である。荒された徳山小学校の図書館から、私は───無断で、ではあるが───1冊の本を借りている。「道」と題されたその本は、揖斐郡教育会の手によるものであり、「道と人とのかかわり」、しかも徳山村を含む揖斐郡のそれを集大成した本である。戸入・門入からの通学路。広瀬浅又の出作り。炭焼の技法。旧八草峠の地図。そしてホハレ峠のこと。本当は、この本に出会うために4年もかかったのかも知れないと、その本を手にした晩に泊まった徳山中学校の体育館で思った。いろいろ書きたいことはあるがホハレ峠に関する一章を写して最後にしよう。この本はダムが完成するまで貸し出し中、ということにしている。

『四、門入と峠道

 徳山村本郷は揖斐川町から四三キロメートル揖斐川に沿って登ったところにあります。
 そこから戸入を経て、約一五キロメートル進むと、門入のむらにつきます。このあたりは揖斐川の水面とむらの高さが同じくらいであるため、めずらしく堤防が作られています。
 堤防の内側にはこの地でなくなった人を埋め、川原の丸い石を五〜六個並べて板に墨で名前を書いた墓標を立てただけの小さい墓が寄り添うようにぎっしりとならんでいます。
 都市の墓のように、大きさや広さや高さや飾りを競うようなところは一つもありません。
 このような奥深い山村では、その必要がない社会であったのでしょう。
 では、この門入のむらはどのように生活してきたのでしょうか。門入の泉金重さんにいろいろ聞いてみました。
 「むかし、門入の人と、他のむらとの交流は、どのようにしてやっておられたのですか。」
 「今では本郷へも道がつくられて便利になったけれども、それまではほとんどホハレ峠を越えて、川上ややらに八草峠を越えて江州などと往き来してました。」
 「川上まで、門入からどれ程あるのですか。」
 「ホハレ峠越しは川上まで二里(約八キロメートル)あって門入からの登りはゆるやかですが、川上からの登りは大変急で、下を向いてこの峠を登っていくうちに、ほおがはれるほどだったことからホハレ峠の名がつけられたというくらいです。」
 「この道は、どんな人が通ったのですか。」
 「ホハレ峠は、門入の人が自分達の造った車胴(けやきの木で作った八角の棒で、荷車の輪の中心になる木の原木)や、けやきの板 後にはとち板を川上へせたでおいねだし、川上からは馬車で揖斐の方へ運んでいきました。
 そして川上からの帰りには、米が足らないので米を買ってきたり、塩や塩魚、干魚、酒、こぶなど、日常のくらしに必要なものを買ってきました。門入のほうでは木炭はおそくまで焼かなかったので、板を出すのが一番大きな産業でした。
 それから旅人がようけ来ました。旅人といっても行商人たちです。その中には、ご服屋や魚屋もいましたし、福井からはかまやしっ器、木之本からは、のこぎり、よき、なたなどを売りに来る人もありました。
 また春になると、くわなおしが来たり、漫才などの芸人も村に入ってきました。漫才は坂内の人で、まずむらの家々を『かどづけ』と言って一戸一戸まわってうたい、それぞれの家では、米や豆をあげました。そして夜は、宿の今井長八さんのところで『にわか』があり、むら中の人が集って楽しんだものです。このときは、入場料だけでなく、『花を切る』と言ってこころざしを出したものです。
 そのほか、唐臼直しやおけ屋、いかけ屋、石臼の目立て屋もまわってきました。」
 (唐臼は、もみからを玄米にするための臼。)
 (おけ屋は、おひつ、たらい、おけ等を直す人。)
 (いかけ屋は、鉄の鍋や釜を修理する人で、雨樋や、バケツの修理もしていた。)
 「そうしますと、川上の人や坂内村の人の交流が大変多かったのですね。」
 「川上から二里ですから、お盆や祭りなどにはよく来て下さったし、浪花節をやったり、一緒に踊ったり、音頭を取ってくださったりもしたものです。」
 「門入の人にとって、ホハレ峠は産業の大切な道でもあり、また生活必需品を買うのに欠かせない道でもあり、いろいろな楽しみや、夢の多い道だったんですね。」
 「そうです。だから、ホハレ峠へは春になると道普請に出て、雪でいたんだところや橋などの修理、架け替えをやったり、六月には野休みの前日に草刈りをしたり、お盆やお祭りの前日にもきまって草刈りをし、台風の後などは大がかりな橋直しなどをしたものです。そして自分達の生活を豊かなものにしてきたのです。」
 「むかしのホハレ峠越えの道はどんな風だったのですか。」
 「この道は門入側は比較的ゆるやかで、途中二キロメートルほど行くと、コージャスマというところがあり、そこから二キロメートルほど行くと、一里ヤスマというところがあって、石段がちょうど、腰を掛けられるぐらいの高さで両側に並べてあり、荷物をその石にのせながら休むところです。一度に一○人以上の人が休めました。
 ホハレ峠には、地蔵さんが祭られてあり、ここも休み場になっていました。地蔵さんに野の花を供へ、道中の安全をお祈りしたものです。
 けれども峠まで二回だけの休みで行くのではありません。途中での休みは荷物の下にニンボという杖を立てて、荷を肩からすかせ、立って休むのです。
 峠をこえて、中の段という畑のあるところを通りすぎるとおりつきというところに出ます。そこが休み場になっていました。
 おりつきから川上まではあと二キロメートルぐらいで、ここまでくるとほっとするのですが、川上側は坂が急なために大変危険だったようです。
 また、広いとち板を背負った人は細い道を行くのには、横歩きしなければならないところもあって、とても大変だったということです。」
 「この峠道は、一回どれほどの荷を運んだのですか。」
 「男の人は1回にとち板三枚で一五貫から二○貫(約五六〜七五キログラム)、女の人で約半分はおいねました。そして、また帰り道も、米や塩など買って背負うのですから、本当によくやってきたと思います。」
 門入は、こうして川上との交流が深く、明治八年から同一七年まで川上村と合併していたほど、深い関係をもって生活してきました。
 昭和二八年、待ちに待った本郷への車道ができて、生活のむすびつきが川上から本郷へと移りかわり、今までの峠越えの苦労は消え去りました。』


■参考文献 References

    大阪大学サイクリング部機関紙、『銀輪』、1992年度版,1992
  • 大阪大学サイクリング部発行、銀輪別冊『道』、1987
  • 山本素石、『渓流物語』,朔風社、1982
  • 伏木貞三、『近江の峠』、白川書院、1972
  • 揖斐郡教育会、『道』、1983


 

 

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