鹿|行政:大分県玖珠町標高:470m
1/25000地形図:深耶馬渓(中津16号-2)調査:2002年10月他


■背景 Background

 新道と旧道の関係は,旧道が上で新道が下というのが一般的である.新道がトンネルならばなおさらのこと.しかし,ここ,鹿倉隧道においてはその法則が綻びを見せる.旧道の隧道が新道トンネルよりも下にあるという,特異な場所である.

 この隧道は私の出身地である町と福岡を結ぶための道として,明治24年に開削されたものである.道の歴史からすれば比較的新しい部類に入るが,明治期に掘られた隧道がほぼ当時のままの姿で残るのは珍しい.ただし,入り口出口の道には以前の台風で大量に発生した風倒木を放り込んで「処理」しているため,自動車はおろか自転車でも通り抜けるのは不可能だ.

■調査 Experiment


 隧道は現県道28号の鹿倉トンネル(昭和48年竣工)と平行にあり,わずかに西よりの,新トンネルより10mほど下を通っている.左写真は北側を撮ったものだが,写っているのが新道で,その左下に旧道があるのだが写真では見えていない.岩の切り通しとなっている隧道前の道は,これでもかという位に風倒木が詰まっている上,そろそろ土に還りつつある.鹿倉トンネルを越えて耶馬渓側から向かった方が良さそうだ.

 とはいえ耶馬渓側からのアクセスも,薄や何やらに覆われていて,そう簡単には通らせて貰えない.隧道そのものは岩盤を掘り抜いて作った,非常に頑強で迫力のある素掘りだ.この力強さは他のどんな隧道にもひけを取らない.内部は石や塵がごろごろしているが,面白いことに底の部分はちゃんとアスファルト舗装となっている.その上を日本海の一部となるはずの水が,東シナ海側である玖珠側から流れていく.そう,ここは中央分水界の一つなのである.

■考察 Discussion


 この隧道を抜ける路線は,当時の玖珠郡長であった村上田長という人物が計画したものである.昭和40年刊の「玖珠郡史」によれば,その頃の玖珠郡は真の意味での「外部とつながる車道」を持たず,いずれかの方面にそれを開くことが望まれていたという.明治19年に大分中学校長と大分師範学校を兼任していた彼が玖珠郡長に就任すると,郡から最も近い港であった中津への車道が最重要と考え,ちょうどその頃発見された深瀬谷に沿うルートに新道を開削することにした.中津に向かう道はすでに存在し,この道を改修する声が強かったのだが,車道とするには勾配がきつすぎると彼は判断したのだった.
 「千古不伐」と形容されるほどのこの地に工事の斧が入ったのが明治22年.しかし,工事は予想以上に困難なものとなった上,既存路線の改修を求めていた反対派とのあつれきが後々まで尾を引いた.資金不足に陥った村上は県議会に対して工事費増資を求める議案を提出するが,反対派の策略によって否決されてしまう.それでも工事費用を切り詰め,寄付集めに奔走し,自身も借金をして工事を続けた村上だったが,ついには「議会の決議に反するもの」と断じられ,郡長罷免という憂き目にあう.完成まであと少しとなった,明治23年末のことであった.
 工事はその後,郡の直轄事業として有志により進められ,明治24年の秋に完成を見ている.「耶馬渓道路」「中津港道路」と名付けられた路線は長く幹線として活躍し,鉄道の耶馬渓線が開通すると大分に向かう道としても利用されることになった(九大線の完成は昭和に入ってからのことである).さまざまな困難を乗り越えてこの道を完成させた村上田長の功績をたたえる碑が,隧道の南側,ドライブインの駐車場の片隅に建てられている.

 なお,完成年は明治24年ととても古いが,土木学会選の近代土木遺産2000選には含まれていない.土木史上で際だつ何かがないせいだろうか.

■参考文献 References

  • 玖珠郡史,玖珠郡史編集委員会,昭和40年(1965)
  • 九州の峠, 甲斐素純・前山光則・溝辺浩司・桃坂豊,昭和40年(1965)

 

 

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