上田口隧道調査 補遺


■補遺 Appendix

 

 

◯明治の伊勢本街道を辿る

 榛原から弁財天にかけての国道369号線は,高井,八滝,内牧といった沿線集落付近のバイパス化が完了している.かつて伊勢へお蔭参りの行列が通り,あるいは明治に入って新道ができ荷馬車が往来したであろう集落内.ぼちぼちと走っているとさまざまな発見がある.

榛原中心部→高井

 伊勢本街道は現在の榛原駅の北側辺りで青山越経由の街道と分かれていた.その分岐点に当たるのが写真の「札の辻」あぶらや前である.油屋といっても油売りではなく,宿屋業を営んでいて,本居宣長もこの宿に泊まったそうである.
 現在この地点には江戸時代の大きな道標が残る.「右いせ本かい道」「左あをこ江みち(青山越道)」と刻まれている.この傍らには明治に設置された道路元標も建っている.何村から何村まで◯里,という時の里数はこの石を基準にして定められていた.その名残の石だ.伊勢古道を慕い道標に目をむける人は多いようだが,傍らにある小さなこの碑に注目する人は殆んどいないように思われる.

 油屋の辻を折れた伊勢本街道は近鉄の高架を潜って南し,宇陀川を渡り,対岸の墨坂神社をかすめるようにして川に沿って下る.下るとはいってもほとんど平坦な道である.今から山に向かうというのに川に沿って下っているという、ちょっとした違和感を味わう.宇陀川が内牧川に注ぐ地点を過ぎればそんな違和感も解消して,ここから先は流れ下ってくる内牧川が案内役となる.

 次の高井までは完全に川沿いの道.旧街道は一カ所だけ川岸を離れて山道を行っていたらしく,小さな段々畑の上に連なる民家への道に対して「→伊勢本街道」と書かれた看板が建っていた.辿ってみると民家の庭先と一体化した舗装道.最後の民家で庭そのものになってしまい,行き止まってしまう.実際はもっと奥に続いていたのだろう.会釈して通ったさっきの民家の前をまた通って,現道に復帰しなければならない.ちなみにこの分岐の直前には,20m近い高さの大樹が国道に張り出している.クスノキかと思われるが,いかにも街道の目印といった風情があっていい.

 それで確かに,この先の現国道は,というよりも内牧川は,段差の激しい渓谷のようになっている.そこを登る国道も2車線幅とはいえ大きな落差の登りである.ひとしきりもがくと,その先の狭いV字の向こうに高井の集落が見えてくる.

高井

 集落内を抜ける旧道が新道と分岐する地点には古ぼけたコンクリート橋が架かっている.銘版は木でできており,かつてはきっと墨か何かで名前が書かれていたのであろう.今は文字の跡すら解らない.何げに橋脚を見るといわゆるスキュー橋であって,橋に対して斜めになった3本足の橋脚であった.今の河川構造令ではこのような多径の橋脚を作ることが禁止されているようなことをどこかで読んだ覚えがある.それ以前のものなのであろう.

 

 

 

 

 少し進めば, 切り妻の二階屋が立ち並ぶ集落内.二階のガラスサッシの奥には切細工を施された障子が覗いている.窓側は廊下であるらしく,そんな障子が列をなしている.かつては宿屋か何かだったのだろうか.和風の家々が続くなかで,一際異彩を放っている建物が一軒.青白いペンキを施された下見板に瓦屋根を頂いた,和洋折衷の二階家である.

 医院か何かを連想させるようなポーチの玄関だが,近付いてみればそれはかつての郵便局であった.何故それがわかったかって? 鬼瓦に〒マークが施されているのを見付けたからだ.そうして隣には真新しい郵便局の建物もある.今は民家として使われているらしく───隣の新局の局長さんでも住んではるのだろう───,軒下の物干し竿に洗濯物が揺れていたりする.
 いつの頃の建物なのかは聞きそびれたが,明治の伊勢本街道を探っている最中だったこともあり,なんとなくその頃の光景が思い描かれた.遠くから徒歩でやってきたお伊勢参りの旅人,ここから先は人影まばらな山道が続くことを聞かされ,最後の名残とばかりに古里に一筆したためる.そんな光景である.ただその旅人も,明治の終わりには姿を消してしまっていたに違いない.明治32年には現在のJR関西本線に相当する鉄道が完成し,伊勢への客はもちろん荷物もそれに奪われたのだった.寂れてゆくこの地にしょんぼりと建つ姿が思い浮かんだことであった.

 

 

 

 明治以前の本街道はここ高井で左に折れて諸木野を通り、最初の難関・石割峠を越えた.分岐点には今も巨大な石道標が建っている.解説の看板も賑やかである.今回の報告者はそれを無視して直進する.

 

 

 

 

 高井の中学校の裏手,川の対岸を通っていく所で,伊豆神社,というちょっと場にそぐわない名前の神社に出会う.由緒は解らないが,きっとちゃんとした謂われがあるのであろう.正直なところ,報告者はその方面の知識に疎い.
 それでも直感だけは働くのだから不思議だ.神社を過ぎようという瞬間に目に飛び込んできた石柱.もしやと思って立ち止まれば,それが旧内牧村の道路元標であったのだった.これで2つ目である.しかし字内牧はまだ先だし,高井の中心部からもやや外れているため,以前あった場所から移されてきたものかも知れない.

八滝

 高井から先の道は現国道と交差して八滝へ向かう.このあたりの地形は少々複雑だ.現国道が山を大きく堀り割って,そのうえ橋を架けて一足飛びに進んでしまうその傍ら.旧道はあくまでも緩傾斜を保ったまま尾根を迂回してゆく.裏側に回ったところで八滝の中心街.今は山手に大きな物産品販売所ができている.その脇を急勾配で登り上げてゆく旧道.

 この坂を登り切ったところに明治の足跡が一つ残っている.伊勢本街道に馬車道を開き,勢和線の誘致にも尽力した,吉川徳三郎翁の頌徳碑である.左手の民家の裏が小高い山になっていて、ツツジと思われる潅木が茂っている。その頂点に高さ2m余りの碑がすっくと建っている.碑の高さと功徳とは必ずしも比例しないだろうけれども,これだけ大きく目立つもの───しかも位置的には民家の裏というさりげなさ───であれば,碑文を読まずとも人物の像が思い描けるというものではなかろうか.

 その先は一重の民家が連なる.前を抜けて50mも行けば杉桧の森に変わる.いよいよこの辺りから山深さが感じられるようになってくる.

内牧

 とはいえ,先の八滝の道はすぐに国道と合流して,旧街道もその下敷になっている.次の内牧までは2車線アスファルトの国道しかない.榛原のはずれから高井に向かった時と同じ感覚で内牧へ入る.

 内牧の集落はちょっと高原っぽい印象がある.標高が高いせいもあり,聞こえてくるのはアブラゼミやミンミンゼミの鳴声,そこにヒグラシのカナカナカナがかすかに混じっている.ここまで登ってきた先にふわっと広がった谷が現れるため,余計にその広がり方が強く感じられるのかも知れない.しかし,この旧道を辿ってみればわかるが,この集落は決して高原の村などではない.川は蛇行しかつ谷底を深く削って流れていて,大水が出ればひとたまりもなさそうな崖の上に民居が肩を寄せ合っていたりする. 

 集落の中程には古い鉄筋作りのビル.今は内牧の公民館になっているようだが,すべり台があったり吹抜けの階段があったりするところを見ると,かつては小学校であったようだ.その傍らにある駐車場,そしてさらにその傍らにある2つの碑.碑はいずれも明治の頃に生きた徳人を賛するものであった.

 碑文を写したメモを紛失してしまったので,正確ではないかも知れないが,一つは明治の初めの教育者を,もう一つの大きな碑は明治の終わりから大正昭和にかけて植林事業を勧業し,村を豊かにした人物のことが記されていた筈である.山谷を開き村全体で苗木400万本を植えたとあったように記憶している.

 400万本,という途方もない数字.思わず周囲を見渡した.谷の対岸はどこまでも続く緑の森,確かにそれは常緑の緑である.世の中には,教えて貰わなければ気づかない,そしてとても大切に違いないことが,多すぎる.

内牧〜弁財天

 内牧集落を抜ける旧道が現国道と合流する地点に一軒の家.そして自販機がある.2度訪れた2度ともここでコーヒーを所望した.実はその先,道路の右手にもあるのだが,ついついこちらで立ち止まり買ってしまいたくなるような位置なのだ.残りの内牧集落は2〜3軒の家,なぜか吹田市NPOの活動拠点があったりするその脇を抜ければ,もう弁財天まで人けはない.あるのは変化に乏しい2車線国道だけである.また森が深いといっても道の上までは覆ってくれず,夏の暑い日などに登ろうものなら骨の随まであぶられてしまう.サイクリストみたような者にとっては最もきついシチュエーションである.従って,写真もない.

 弁財天より先は,「日本の廃道」9月号特集へ接続する.


 

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