■考察 Discussion
道路用煉瓦隧道の嚆矢であり,かつ多くの謎を秘めた鐘ヶ坂隧道.その歴史を探るために,報告者はさまざまな資料に当たってみた.明治初期の大事業だっただけあって,隧道に関する資料は比較的豊富だ.例えば隧道誕生の背景には多紀郡よりも氷上郡が大きく携わっていたようで.昭和2年に初版が出された「丹波氷上郡志」(以下郡志)や昭和30年に成った「柏原町志」(以下町志)では,交通の部に1節を割いてその設立の経緯が記されている.篠山側の丹南町史にも大きく取り上げられている.しかし,隧道の完成直後に出されたと思われるタブロイド板のビラ「丹波國鐘坂隧道概記並概図」(以下概記)が最も詳しくかつvividなものだ.考察はおもにこの書に依って進めたい.
概記によれば,隧道建設の話がもちあがったのは明治十三年一月六日に開かれたある会合の席でのことだ.当時の氷上郡長だった田艇吉,多気郡大山宮村の村長・関田多祐など地域の名士が集まる新春の席で,ふとしたきっかけから鐘坂のことに話が及んだ.氷上と多紀を遮る大嶺・鐘坂を改修しないことには,丹波の文化産業の発展は有り得ない.しかし車道をつけるには急峻過ぎる.ならばこの嶺に隧道を穿つべし.そんな話を,田は諄々と説いたのだろう.多紀郡にとっても氷上郡との交通が至便になることには大きな価値があった.当時は氷上郡の佐治川(加古川)の水運がさかんであった一方,多紀郡から外部へ通じる道はいずれも険阻なものであって,多紀の物産を外部に売るには非常な手間賃がかかっていた.例えば多紀の俵米は五升込(輸送中の損失や手間を考慮して多く入れる習慣があり,それを込米といった)だったが,価格は氷上郡の込米のないものと同程度であった.薪や材木などは氷上郡の半額にもならなかったという,隧道ができて加古川の水運が利用できるようになれば,河口の高砂まで安価で運ぶことができ,多紀の物産の価値を高められる訳である.同席の者たちはみなその場で賛同し,ここに隧道建設の一歩が始まる. 「多紀氷上両郡を通る県道三等の鐘ヶ坂は極めて険しいところで運輸の妨げになっている.山も険しく如何様にも道を変更できない.そこで隧道を通すべく有志が事を図り,多少の寄附の見込みも立った.しかしながら見積もりによれば,延長百五十間※の隧道と前後の道を作るのに約三万円の資金が必要との事.たとえ三分の一の官費補助があったとしても両郡民の寄附だけではとうてい賄えぬ.とはいえ,この計画を中止すれば再びこれに着手する者も容易ではないだろうし,折角の有志の尽力が水の泡になってしまう. ※氷上郡志や柏原町志では九百五十間とあるが誤りであろう(町史は郡志を下敷に書かれており,郡志の誤りを引き継いだものと見える).鐘坂の嶺は厚い所でも1kmに満たず,約1.7kmもの隧道を掘ることは物理的に不可能だ.丹南町史にある伺書でも百五十間となっている.
このへんが明治時代の政治と言うべきか,もう翌日には県令森岡昌純から返答が出されている.曰く詳しい見積もりを出せと.田らは氷上郡六千円,多紀郡四千円を負担することを約束し,議会での承認も得て.工事に着手した.明治十三年十二月二十一日のことである.
工事の担当は藤田伝三郎率いる大坂藤田組,逢坂山トンネル(明治13年竣工)の施工を担当し,のちに琵琶湖疎水工事にも携わった請負集団だ.導坑の貫通は十五年三月二日とある.這って進むような小さい坑だったにもかかわらず矢のように真っ直ぐで,東から西の出口の光を見ることができたという.さらに拡張工事・煉瓦巻き工事を進め,十六年九月二十四日には竣工を迎えた.
概記には完成直後の隧道のスペックが細かに記されている.これによれば長さ百四十七間,高さ十一尺ないし十四尺とあるのはアーチの「せり上がり」を指しているものと思える.幅は十三尺六寸で,「中央広さ十五尺,煉瓦の囲む所長さ八十四間余」.ここが重要だ.完成直後は中央が幅広くなっていて,煉瓦の巻かれていなかった箇所があるということだ.試みに,現在の隧道に見られる「煉瓦の境目」から坑口までの距離と全長との比を計算すると,150m/260m=0.576.概記にある84間/147間=0.571とほぼ一致する数字である.従って,煉瓦の境目より外側が完成当初の煉瓦巻きであり,それより内部は後に巻かれたものであることは間違いない. さらに概記にはこんな記述もある.煉瓦の層は2枚ないし4枚,用いた煉瓦の数は28万枚.水抜穴から見た煉瓦は東西坑口のどちらも2枚巻き(長手方向に一つ分)であったから,4枚というのは局所的なものであろうと思う.東口近くには3枚目の煉瓦が見えている穴もあったが,どれもすき間を埋めるためのものであるらしく,傾いだ状態で固定されていた. また西口には小さな楼閣を建て,噴水まで設置された.南画風に描かれた概図にも紀功の碑と並んでその姿が見える. そう,前頁で触れたあの石碑,開通直後にはすでに西口に建っていたらしいのである.概記には「その撰文を編修副長官重野安繹君に請托せり」とあって,町志でも「右竣工後,記念石碑を作り」と記されている.氏の多忙で撰文が延び延びになり,ついに逝去してしまったため,うやむやのまま放置されていたようだ.そうして碑文のないまま30年近く立ち続けたのちに,大正4年,郡長・前川万吉の働きかけで完成を見たのであった.なお,概記には発行年が記されていないが,重野安繹は明治19年に修史局編修長となっているから,16年19年の間のものであることがわかる.
その後さらに30年,隧道は当時の姿のままで使用された.道路法がこの隧道を「追い越してしまった」昭和16年,ようやく大改修を受けている.隧道の底を1.7m掘り下げて有効高さを4mとし,これによって大型車が通れるようになったという.アールを含まない高さと幅の比が4:3以上となって,この縦長の隧道が,今でも見ることのできる姿である,しかしこの掘り下げが,西口ポータルの崩壊と補修の原因となったようだ.掘り下げから14年後に編まれた町志にはその頃の鐘ヶ坂隧道の写真が掲げられているが,真新しい木材とおぼしき太い枠で坑口が囲われている.現在のコンクリート補修はこの木枠ごと坑口を固めたものであるようだ.
郡志および町志では,内部の煉瓦巻きの追築について触れられていない.しかしながら昭和の掘り下げ以前に作られていたと見るのが妥当であろう.報告者の予想では,「概記」以降比較的新しいうちに素掘り部分からの落石防止のため煉瓦が巻かれ(ドーム部天井に見えている煉瓦ロ'),さらにもう一度,修景のために内側の煉瓦(煉瓦イ')が巻かれたのではないか.内側の煉瓦巻きも,多紀・氷上郡界の素焼きのプレートがつけられていること,この部分の煉瓦イ'も規格外の寸法であることを考慮すると,煉瓦の規格が定まった大正前半までのことではないかと思える.ちなみに煉瓦イとイ'は目視で新旧がわかるほどの色の違いはない. 掘り下げという延命処置によって隧道は生きながらえ,昭和42年に鐘ヶ坂トンネルが完成するまで現役であり続けた.完成から実に84年もの間働き続けたことになる.その労苦が,西口坑口や天井のコンクリート補修に滲み出ているようだ.このコンクリート補修も,いつごろ行なわれたのか明確な記録がない.それが知りたくて,道路を管轄し公園化の計画を進めている柏原土木事務所に尋ねてみたが,該当する記録は残っていないとのことだ.丹波新聞も,昭和5年から 16年,22年から42年までざっと目を通したものの,崩壊や補修の工事が大きく取り上げられた痕跡はない.むしろ郡内から京都府,あるいは但馬や那珂郡へ向かう道の整備についての記事が目立ち,この頃の大阪〜福知山線は忘れ去られたかのようだった.
ついでながら,町志には石碑の文面も載せられている.文政六年の金坂修道供養塔はかなり摩耗しており,現在はこれを判読するのが難しい.何かの参考になればと思い,その全文を掲げておく.
頭取の名がやはり田であるところに注目したい.隧道開通の立て役者たる田艇吉も,きっと彼の子孫だったのだろう.なお田艇吉はこの隧道に留まらず,現在のJR福知山線にあたる「阪鶴鉄道」の建設も画策し携わっている.氷上郡の「近代交通の父」と呼んでも過言ではない人物である.
■参考文献 References
■謝辞 Acknowledgement 突然の問い合わせにもかかわらず丁寧に対応して下さった柏原土木事務所.資料を提供いただいた丹波市教育委員会,篠山市教育委員会,柏原歴史民俗資料館,全日本建設技術協会の方々に感謝.バックナンバーを閲覧させていただいた丹波新聞社のみなさんにも御礼申し上げます. |
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