観音峠(考察・参考文献)


■考察 Discussion

 丹波町の町史によれば,貝原益軒の「西北紀行」に出て来るのが観音峠についての最も古い記録だという。その頃は三戸野峠(水戸峠.西側に水戸という地名がある)と呼ばれ、上下一里の道のりであった。峠の上に民家があり、ここを嶺といったとある。なんとなく切通しの西側にあった整地が思い出される。また貝原益軒は「俗にいう山椒太夫が関をすえし所なり」と記しているが,報告者は山椒大夫の物語を読んだ事がなく,湧く実感がない.
 

 現在の国道9号に相当する道は、明治10年に京都〜須知まで改良開通。須知町の本町通りが明治16年に、翌17年に新町三叉路までが完成した。この改修は同年中に福知山まで伸びている。明治23年にも道路改修がなされ、ここで正式に山陰街道と名付けられた。峠の切通しや石垣もこの頃の産物と思われる.
 明治の改修以降はしばらく目立った動きがない。昭和8年5月になって観音峠隧道の工事が始まる。完成は昭和10年3月14日。合わせて老ノ坂峠の隧道も開通している。
 報告者は町史によって初めて知ったが,観音峠隧道開通当初のこの路線は国道18号の指定であった。それが9号になったのは昭和27年,戦後のことだ。

 観音堂の下手にあった塚は,江戸時代の一里塚だった可能性が高い.丹波町誌の交通の章の冒頭に丹波国内の一里塚の図が掲げられており,その中に観音峠の名も見えている(峠だから記載されている訳でもなさそうだ).塚は桧の林を5m四方ほど整地して、そこに土を盛ったものであった。高さは50cmほどでさほど大きなものではなく,頂部から手前に大きく崩れていたが、これも植えられていた塚の木が倒れた跡だと見れないこともない。道を挟んだ向いはすぐに沢であり,対でなかったことは気がかり.

■参考文献 References

  • 丹波町誌、丹波町誌編簒委員会,1985

 

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