軽岡峠(考察・参考文献)


■考察 Discussion

 冒頭でも触れた通り,明治36年に大きな改修を受けて馬車が通れるようになったという.これは荘川村史上巻によるが,村史には隧道であったか否かまでは記されていない.実地調査の結果から言えば,隧道以外に馬車の通れたであろうスペースはなく,当初から隧道であったことはほぼ間違い無いであろう.
 では,現在残っているコンクリート製のポータルはいつのものであろうか.木筋という構造からかなり古い時代のものと推測されるが.正確なところはわからない.この隧道の建設年あるいは改修履歴を知りたくて,報告者は国道158号を管轄する高山工事事務所に赴いたが,該当する資料は残っていないとのことだ.今日の道路は「道路台帳」と呼ばれる図面で管理されているが,その整備が始まったのが(岐阜県の場合)昭和50年代から.それ以前は地形図のような広域地図に書き記す形でしか管理されていず,それも系統だったものではなかったらしい.
 一つの手がかりは,中路正恒氏の「飛騨に生きる人々と技」にあるいくつかの情報である.彼は六厩の人から「木枠のトンネルがある」ということを聞いている.しかしそれは,例えば炭鉱の坑道のような木枠を指すものであったかどうか.少なくともこの隧道の最終形態は,木筋のコンクリート巻き立てである.

 中路氏の文章でも触れられているように,明治四十二年,柳田國男がこの峠を越えている.峠道では頭に板を載せて雨を凌ぐ人を見,また小倉の洋服を着た男が酒に酔って登ってくるところに出会っている.それはその日の村議会で罷免された荘川村の助役であった.報告者はこのエピソードがひどく印象に残っていて,南側の峠道を登りながら,彼もこの道を歩いたのだろうかなどと想像してみた.必ずしもこの区間を通った訳ではあるまいが,辞職峠という異名に,峠道の山深さ・寂しさも重なって,トボトボフラフラと登ってくる彼の姿が目に見えるようであった.
 軽岡峠は昭和34年に廃止され,かわりに2車線幅の峰越え道・新軽岡峠が作られた.私設林道がその下敷となっていることも,中路氏の文章の中で触れられている.さらにその後,1989年には現在の軽岡トンネルが完成.新軽岡峠もまた過去のものになる.2002年には三谷〜軽岡トンネル間の狭路をバイパスする三谷トンネルも完成し.かつて報告者が登った国道も旧道と化して落葉の下になっていた.たった2年間の間にも峠の歴史は確実に積み重ねられている.変化の境目に居合わせたことを好運と思わねばなるまい.

 そんな峠の栄枯盛衰を見守り続けてきた峠の辻堂.この格子が「千鳥格子」という技法であることは先に伸べたが,その拡大写真が右図である.まるで織物か何かのように,一本一本が互い違いに組まれていて,考えれば考える程その細工の妙に感心させられる.工作が好きな報告者─だって細工リストだもの─は,素人なりにその組み方を考えてみた.ポイントは,組み合わせた部分(仕口)の溝の深さを,組み合わせる木材の1/3以下にすること.こうしておいて,格子の面を押し込んだり引き出したりしながら,横から一本一本滑べり込ませていくのである.

 このやり方が正しければ,最終的に組み上がった仕口のなかに1/3の空間ができるはず.この御堂の格子にもいちばん上の水平材にそれらしきすき間が見えている.
 とはいえ,理論的には作れたとしても,それを実際に作るとなると話は別だ.精度を上げようとすればするほど,また格子の数を増やすほど手間がかかり,指数関数的に工数が増える.それだのに,実物の中央付近の仕口は剃刀の刃も入らないような精密さだ.これこそが匠の技というものであろう.

 最後に、三尾河側の峠道で見た尾根筋の道について記したい。入口の道標について教えてくれた方─この道標の道を挟んだ反対側に住んでおられる─は、峠道の脇に細い道があって、郵便配達夫が行き来していたことを教えてくれた。確認は取れていないが、その郵便配達夫が通ったのが件の尾根筋道ではないかと思う。尾根筋をたどれば車道の峠道と平行に進み、軽岡峠へ至ることができる。車道であった峠道は屈曲が多いうえ、山の斜面につけられており、冬季は雪に閉ざされたことだろう。尾根筋を通れば時間を短縮できるうえ、雪の心配も少ない。
 この話を伺って、荘川村の郵便事情についても調べてみた。明治6年に高山西町の田島知平が郵便御用取扱となり、翌7年に管内十八箇所に郵便取扱所が設置されている。荘川新淵に置かれたのはこの年の7月15日のことだ。明治38年より以前は白川村御母衣、清見村夏厩の二方面に逓送ルートが開かれていて、明治38年からは郡上郡大鷲へもつながった。かつての荘川の物流は分水嶺を南へ越えて郡上方面との結び付きが強かったというが、それでも逓送が遅れたのは、この方面に郵便取次場所が出来ていなかったからのようだ。
 改めて考えれば、当時の郵便配達夫という仕事は苛酷なものだ。村史によれば毎日朝6時に出発、1人5貫匁の荷を背負って、2〜3人が組になり、雨の日も雪の日も運び続けたと村史にはある。夏厩方面はその夏厩までの往復だから、毎日2つの峠越え・往復で4峠を登り下りせねばならない。明治44年に六厩までの往復となり、昭和11年には運送業者(清見自動車)へ委託となったものの、冬季はやはり人の背に頼らざるを得なかったという。あの方が真っ先に郵便配達のことを教えてくれたのも、そんな仕事の厳しさを目の当たりに見ていたからではないかと思った。あるいは高山から嫁いできたという彼女の恋文も、彼らの背によって運ばれていたのかも知れない,などと思ってみたりもする。

■参考文献 References

  • 荘川村史、荘川村役場、1975
  • 「洋杖と袴」、小林幹著、1978
■謝辞 Acknowledgement

 突然押しかけて無理難題を押しつけてしまった高山道路事務所のみなさんに感謝.その後何かわかりましたでしょうか.


 

 

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