キリズシのトンネル・考察■考察 Disussion
深水の人々はこの隧道を通して宇佐との交流を深くした.上深水産の酒「池の月」や薪,木炭などを搬出し,また宇佐からは日用品が運び込まれた.郵便馬車も宇佐から通ったとされる.小学校高等科へあがった子供はこの隧道を通って宇佐の四日市高等小学校へ通った.第二次大戦中には宇佐に海軍航空隊が置かれていた関係で学徒動員の生徒の通い道にもなったという.このほかtaiheiさんが現役時代の興味深い話を聞いてきておられる。ぜひ参照されたい。
隧道が使われなくなったのは,調査1で述べたように台風によって峠道が破損したことが大きい.麓で話を伺った時に昭和29年の洞爺丸台風で,と伺ったような朧げな記憶があるが定かではない.三光村史にも昭和20年代までは盛んに利用されていたという記述がある.
隧道東口にあった謎の文字.後になって見直してみると中央に「シ水ボリ」と彫られているように見える.その左の削られた文字は「深水」のようだ.この文字群は隧道口の北側壁面に彫られているので向かって左すれば字深水へ向かうこととも一致する.すると「シ水ボリ」とはこのトンネルのことを指しているのだろうか.右側の掠れた文字が読めればいいのだが,「小田□(□は不明)」のように読めて,同名の地名はない. キリズシのトンネル=「シ水ボリ」とすると,この北にある清水トンネルとの関係が気になってくる.深水の下流,三光村秣から宇佐市清水へ越える峠に清水トンネルがあり,隧道リスト等では明治25年竣工とある.が,明治36年測図「宇佐」にはこの道も隧道も描かれていない.リスト(管理台帳)の記述が誤りで,「清水隧道」=「シ水ボリ」なのではないか,といった想像をしているが,それでもなぜ「しみず」なのかという問題が残る.宇佐側赤尾に何か残されていないだろうかと思うものの,隧道建設の主体が深水にあった以上,その可能性は低いだろう. ■参考文献 References ・三光村史(三光村教育委員会編,三光村(1988)) |
| ![]() | |
![]() |