大崎隧道(考察)

■考察 Discussion

 大正9年,木之本に始まった湖北周遊道路の建設.最終段階である第7期工事・海津大崎周辺は昭和10年1月13日に着工した.延長2.4km余りの新道に,工費16万円弱と5つの隧道をかけて,翌11年6月28日に完成している.路線はもともと15ヶ年の継続計画で作られているから,ほぼその通りに進められたといえる.

「滋賀県土木百年年表」より引用

 

 「滋賀県土木百年年表」には工事中の写真がいくつか掲載されている.一つは第一隧道貫通の記念写真.上下に導坑が掘られ,その坑口にYシャツ姿の男が写っている.「本邦道路隧道輯覽」によれば底設導坑が先で,いわゆる 新オーストリア式の掘削作業であったことがわかる.この後,上下の導坑の間を削り落として,坑道を広げながら側壁工事へとかかってゆくことになる.2年前の湖北隧道では日本式(頂設導坑→袖→中背打→大背打→と上から順に掘り下げて行く)が採られており,この点からしても大崎隧道は新しい試みであったことがわかる.
 「滋賀県土木百年年表」によれば,大崎の隧道群は山本広次という道路技手の設計によるもの.山本がいつから滋賀県土木課に務めていたかは解らないが,昭和5年に内務部土木課勤務を命じる辞令が出されているから,その頃にはすでに滋賀県の道路技手として務めていたようだ.昭和11年2月1日には今津工区の工区長に任命され(恐らく第7期工事と関連している),湖北周遊道路の完成後は八幡土木出張所(昭和13.4.1〜14.6.23),木之本土木出張所(昭和14.6.24〜14.5.22)と所長職を歴任していくことになる,一方の村田は,工事半ばの昭和11年1月15日,県庁を去っている.

「滋賀県土木百年年表」より引用
 残り2枚の写真には「犬戻付近 昭和十年五月十七日」「犬戻り爆破作業 昭和十一年五月二十一日」と記されている.前者は写真の角度や周囲の地形から判断するに,第5隧道の辺りであろうと思う.後者は小さな岬を切り通しにするために発破をかけた瞬間で,30mくらいの高さにまで土砂が飛んでいる.こうして一つひとつの岬を削っていったのだろう.




 さて,大崎を一度でも訪れた人ならば,大崎の桜の由来を知っているはずである.今でこそ滋賀を代表する桜の名所だが,その源は一個人の自発行為であった.しかもそれは,大崎の隧道と深い関わりを持っている.
「滋賀県土木百年年表」より引用
 大崎に桜を植え始めたのは,修路工夫であった宗戸清七という人物.修路工夫とは道路の補修を専門とする作業員で,未舗装の道が多かった当時は必須の「道路維持部隊」であった.彼らがいつも巡回して,轍を埋め,地ならししたおかげで道路の命が保たれていたのである.「滋賀県土木百年年表」には当時の修路工夫の集合写真も載っている.揃いの帽子に印判天と脚半巻,そしてワイヤーレスの自転車を携えて立っている.きっと宗戸氏もこのような姿で仕事場たる道を行き来していたのであろう .
 彼は作業の傍らで,ふと「ここに桜があったら」と思い立った.海津の景色は美しいけれど,岬の緑と琵琶湖の蒼しかない.そこに桜を加えたら,どんなに美しくなることか───そう考えたかどうかはともかくとして,彼は自分の給料から桜の苗木を買って植え始めた.やがてそれは村の青年会を動かして,大々的に進められてゆく.大崎隧道が完成すると,それを記念して海津村(現高島市マキノ町)が大々的に植樹を行なった.今では延長4km,600本余りのソメイヨシノが,海津の春に桜色の帯をつむぎ上げる.
 海津大崎の桜並木は,1990年,財団法人日本さくらの会から「日本さくら名所百選」に選ばれた.そうして,海津の桜は各地から人が訪れる名所となるのである.

 ふるさとというものは,こういう無欲無名の人物によって作られるものなのだなあと,しみじみと思う.

■参考文献 References

  • 『滋賀県土木百年年表』,滋賀県土木部(1973)
  • 滋賀+1特別号vol4・Mother Lake 八景』,滋賀県広報課(2003)
  • 『本邦道路隧道輯覽』,内務省土木試験所(1941)
  • 瀧山與,『隧道工學』,高等土木工学 第7巻,常盤書院(1931)

 

 

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