水分峠(九重町側)


 水分峠は風情のない峠である.「これでもか」という位に水分峠の文字が目に入ってくる.最も目立つのが,植木を刈り込んで作られた「水分峠」の文字.これは報告者の子どもの頃からあったものだ.ドライブインはもちろん「レストハウス 水分峠」のままだし,阿蘇・九重国立公園の独特な看板もあるし,道路脇の小さな標識にも水分峠の文字が記されている.幼い頃は親の車ででしか越えられなかったこの峠.自転車という武器を手にしてから,報告者は何度も自転車で登った.その度に,懐かしさと征服感,そして脱力感とをないまぜにした奇妙な感覚に陥ってしまう.


 九重町側は,陸橋やトンネルによってショートカットされた旧国道を一つひとつ尋ねていくのが面白い.そんな道の奥には佐賀県道時代に作られた石橋が残っているからである.標高の高い順に藤ノ尾橋(左上・乱れ積),深瀬橋(右上・乱れ積),妙見橋(左・布石積)とあって,やっぱり石橋の国・大分なんだなあと思わせる.玖珠郡史談会編の「玖珠川歴史散歩」によれば,深瀬橋・妙見橋は岩永という石工が作ったもので,明治31年に完成したものだという.


 また深瀬橋と妙見橋の間にある枝川には,石アーチの水路橋・通水橋も残っている.現国道にかかる小さな隧道を手前で折れ,旧道に入れば,谷の対岸にあるこの橋を見る事が出来る.小さな谷にちょこんと架かっている姿は全く忘れられたようだが,東飯田の田畑をうるおす右田井路の水道橋として今だ現役である.水路橋なのに石製扁額もあったりするのも面白い.
 右田井路は九重町の酒造家・麻生家が親子4代に渡って作らせた灌漑用水.玖珠郡誌によれば,明治3年,当時の日田県令・松方正義が農地の拡大のために水利事業を奨励したのを受け,里長でもあった麻生寛蔵が町内有志を募って着手したとされる.郡誌には水路や橋の完成年までは記されていないが,明治34年に水利組合の認可を受け,37年には「負債の整理,井路改修,反別割改正に全力を注ぎ」とあることから,この頃にはすでに完成していたものであろう.「近代土木遺産2000選」に登録されている,最も古い水路石橋は明治15年頃竣工の三永の石門.場合によってはそれに匹敵する古さを持っているかも知れない.

■参考文献 References

  • 玖珠郡史,玖珠郡史編集委員会,昭和40年(1965)
  • 玖珠川歴史散歩,玖珠郡史談会,葦書房,平成2年(1991)

 

 

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