奥山田新道(考察・参考文献)


■考察 Discussion

 この報告書と「近代土木遺産リスト」を除いて,世界にたった一つだけ,奥山田新道と3つの隧道について記されたweb頁がある.山田資料集というタイトルで,奥山田の暮らしや新道ができるまでの古道,新道建設のいきさつなどがまとめられている.ただし文章は,また別の印刷文章をテキスト化したもののようであり,最終更新は1999年で止まったままだ.宇治田原町の教育委員会に新道のことをお尋ねした時,町史よりもこちらのほうが詳しいから,とこの頁のことを教えられた.作者の連絡先がなく詳しいことを尋ねようがないのだが,他のコンテンツから察するに奥山田小学校の先生が作られたもののようである.本考察では誠に勝手ながら,この頁を焼き直す形で全面的に引用させていただくことにする.

 この資料によると,新道が作られるより以前の奥山田への道は,湯屋谷村石詰(現大字湯屋谷)から2つの峠を越えて奥山田村川上につながる信楽街道が本道であったという.この道は現在の地形図にも記されている───但し大福谷より先は破線道表記───.他に副道として,奥山田の川下にある木元(こもと)から西へ進み,長尾地蔵への大坂を経て湯屋谷へ出る「京道」があった.この長尾地蔵はある種のランドマークみたようなものであったようで,滋賀県の瀬田方面へ出るための道もここを経由していたという.奥山田から南に向かうのも,殻池峠という大きな峠を越えなければならない.信楽街道の先も裏白峠と前後の峠が待ち構えている.まさに奥山田は,俗世から切り離された桃源境みたような場所だったのである.

 明治の御代になり,年が重ねられていくにつれ,そんな奥山田にも車が自在に行き来できる道が求められるようになった.明治42年,時の奥山田区長・下岡幸助は新道開削を決意し,宇治田原村長の山本広三郎を説いて,新道建設を村の事業として興すことに成功.区内の五村から一人ずつに山本を加えた六人の「道路委員」をたてて,事に当たった.
 当初は信楽街道を改修,すなわち湯屋谷石詰から新道を通す予定であったらしい.しかし湯屋谷の集落は狭く細い谷を埋めるようにして伸びているため,道路を拡張するのは困難であった.それに湯屋谷の人々にとってはあまり利益のない路線である.ゆえに湯屋谷村からの協力が得られず,仕方なく今の路線になったと資料にはある.また路線が決定してからも,資金繰りや山林の持ち主との交渉でかなりの苦労をしたようだ.府からの補助はあくまでも補助であって,大半の資金は区が保有する山林を売って賄っただけでなく,奥山田区の人々による多くの寄付で工事は成り立っていた.路線の土地を買うために,山本村長が自らの懐を痛める場面もあったようだ.

 工事にあたっては───第三隧道のポータルに掲げられているように───横浜から青木市太郎という人物が招かれた.なぜこの人物が選ばれたのか,どんな人物だったのか等は資料にも書かれていない.彼が作った煉瓦ポータルから想像するに,かなり腕のある職人(職業人)であったことが想像される.ともかく彼は岩山という所に居を構えて,隧道の掘削を指揮した.
 最初に作られたのは中央のトンネル,第二号隧道であった.ここが最も山が薄く,工事が進めやすかったからだという.しかしトンネルは測量にミスがあり,内部で段違いになってしまった,という逸話も資料に記されている.次いで第一第三と掘られ,そして立派な煉瓦アーチが構築された.新道開通碑によれば,竣工は大正2年.隧道の銘板では明治45年竣工とあったから,前後の道を完成させるのに+1年ほどかかったようである.

 完成後は奥山田と宇治田原とを結ぶ幹線として「奥山田に夜明けをもたらした(同資料)」.奥山田からは石灰や炭,茶などが荷馬車で運び出され,また日用品食糧品がトンネルを抜けてやって来た.子ども達は真っ暗なトンネルを潜って宇治田原の小学校へ通い,きっとそこで自分たちの知らない世界が広がっていることを知っただろう.

 そうしてトンネルは,いつまでも奥山田の人々のためだけに存在した.大正9年の道路法改正でも,この道は国道はおろか県道にも指定されていない.後に裏白峠殻池峠方面の車道が整備されても,しばらくは府県道止まりだったようである.ようやく国道指定を受けるのは昭和44年.その頃にはもう第二第三隧道をショートカットする奥山田隧道ができ,第一号隧道もコンクリート改修を受けて久しくなっていた.


 


 3つの旧隧道を抜け,たどり着いた奥山田宮村の風景.小さな谷に民家が肩を並べ,山手には小学校と,村の産土神でもあるはずの天神社.周囲を囲む山の日の当たる斜面には茶畑も見える.今となっては三桁国道がかすめて通るというだけの一山村である.しかし,かつてこの村に住んでいた人々が,独力に近い形で新道と3つの隧道を作ったんだなあと思うと感慨深い.帰り際に,改めて開通記念碑の裏を眺めてみる.

 
 





 






 
 





 




 
 





 
西





 
 





 






 
 





 







 
 





 






 
 





 







 
 





 







 
 





 







 
 





 







 
 





 






 
 





 







 
 





 













 














 













 
 
 
 
 

 





 
 
 
 
 

 






 
 
 
 
 

 





 
 
 
 
 

 






 
 
 
 
 

 







 
 




 





 





 






 





 







 





 





 





 






 





 












 






 





 





 





 





 





 
西





 
 
 
 

 






 
 
 

 






 
 
 

 






 
 
 

 







 
 
 

 






 
 
 

 
西





 
 
 

 






 
 
 

 






 
 
 

 





 
 
 

 






 
 
 

 






 
 
 

 






 
 
 

 





 
 
 

 










 




 
 
 
 
 
 












 
 
 
 
 






 
 
 
 
 






 
 
 
 
 






 
 
 
 
 






 
 
 
 
 








 





 
 
 
 
 







 
 
 
 

 





 
 
 

 






 
 
 

 







 
 
 

 







 
 
 

 











 






 

 ずらりと並んだ古めかしい名前.壮観だ.旧い道が殊更に懐かしく感じるのは,目には見えないけれども,そこに人々の姿が感じられるからだと報告者は思う.昔は誰もが立派な道路を望み,その望む道を作るための資金を寄せ合い,あるいは自ら働いて隧道を穿った.ここに並んだ人々はまさにそんな人々であり,廃道同然の奥山田新道を懐かしく感じさせる所以である.

 それが今ではどうだ.望みもしない道路が,誰だか解らない人物の思惑で決定され,上から与えられたもののようにして作られてゆく.全てがすべてではあるまいし,熱意を持って関わり合った人は多いだろうけれども,それでも新しい道に対して「誰かの道」「誰かが作った道」という感情が全く湧かないのはどうしたことだろう.旧道に粗大ゴミを捨てる輩が後を絶たないのも───憎いことではあるが───むべなるかな,と思う.

 そうは言ってもしかし,今のような関係は,明治の初めに道路法が定められ,お上が管理することと決まった時から予言されていたことなのだろう.そういう意味からすれば,あの精緻な煉瓦ポータルは,燃え尽きようとする燭光の最後のきらめきだったのかも知れぬ.


追記

 先日,滋賀在住のゆうじ氏から,第三隧道に掲げられた扁額の写真を戴いた.写真を見て,実物を目にした時の「?」がありありと思い出された.手控え忘れていた四文字は「幽谷窃然」であった.
 窃然,というのがよくわからない.窃盗とか剽窃とか,あまり良いイメージがないようにも思う.だが,改めてネットで調べてみると.中国の古い医書に「清然窃然」という言葉があり,これは「清廉潔白」と訳されている.古い日本語でも「窃(ひそ)かなり」であって,表立たず内密なさまを表す形容動詞というに過ぎないようだ.隧道が作られた当初の山深さ,自然の美しさを褒める言葉なのであろう.そういえば1号隧道の扁額も,そんな自然賛美の一節であった.

■参考文献 References

■謝辞 Acknownledgement

 上記頁の作者氏にまず感謝.紹介して戴いた宇治田原教育委員会にも.そして写真を提供して下さったゆうじ氏にも御礼を申し上げます.


 

 

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