大峠(考察・参考文献)

■考察 Discussion

 大峠の峠道と隧道の歴史は明治時代にまで遡ることができる.山形,明治,隧道,この3つのキーワードから連想される例の人物こそ,報告者がさんざん「顔を見たい」と思っていたこの道の計画者であった.三島道庸である.

 初代山形県令として多くの土木工事をなした彼は,明治15年に福島県令を兼任.のちに福島県令専任となってからも,やはり土木工事を中心に据えた県政を押し進めた.改良計画の中心となったのが,会津若松を起点として西,南,北へ向かう三本の道・会津三方道路.そのうちの北へ向かうものが大峠越えの米沢街道(山形側では八谷新道)であった.

 そもそも会津若松〜米沢間には檜原峠越えの米沢街道が藩政期から存在しており,交流のほとんどはこの道を通して行われていた.が,檜原,蘭,大塩と峠越の連続する難所であり,福島〜米沢間の板谷越と同じ「痛し痒し」の状況であったようだ.この状況を打開すべく,杣道があるのみでほとんど使われていなかった大峠に新道が開削されたのが明治5年のこと.しかし,これも車馬を通す幅員はなく,すぐに徒歩の者すら通らなくなってしまう.三島が山形県令に就任した頃にはすでに廃道同然であり,この道の改修を計画していたようだが,在任中の6年間にそれを実行することができなかったのだった.

 その心残りを晴らすかのように,福島県令となった彼は直ちに三方道路の建設にとりかかっている.万世大路の時と同様に,会津全域から15歳以上60歳までの男女に月に一度の夫役を課し,勤められないものには男1日15銭・女10銭の代夫賃を納めさせることにした.しかし,米1升が5〜6銭だった時代のこの夫役,ほとんど作業ができないはずの冬季も夫役・代夫賃を納めなければならなかったという過酷な夫役が,あの喜多方事件・福島事件の引き金となるのである.

 明治15年11月,代夫賃を払えない者が続出する中で,家財道具の差し押さえとその競売処分が始まった.それに反対する農民ら千名余りが弾正ヶ原(現・塩川町)に集結,是正を求める集会を開いているうちに,喜多方警察署に捕らえられていた自由党員・宇田成一ら指導者の釈放を求めて警察署へ押しかける行動に発展した.集団は抜刀した警官と衝突し,のちの一斉検挙で会津だけでも500名以上の自由党員が検挙されたという.これが福島史上稀に見る大騒動・喜多方事件である.三島の名誉のために付け加えるのではないが,これは工事に対する不平分子が自律的に蜂起したというよりも,政府と対立を続けていた自由党員が機に乗じて焚きつけたものであったとされている.
 3日後,今度は福島自由党本部の無名館が警察の急襲を受け,福島自由党の急進派6名が政府転覆をたくらんだとして逮捕される.その中には議会で三島と対立していた議会長・河野広中も含まれていた(福島事件).これによって議会から自由党が一掃され,福島県における自由民権運動は急速に衰えていく.この2つの事件は自由民権運動の激化事件の端緒として知られるようになり,強硬的な手腕をふるう三島は「鬼県令」として恐れられることになるのである.

 さまざまな事件が起こる中,米沢街道の工事は進められた.延べ73万4000人の人夫が使役され,現在も大曲の難所として知られる泰次郎岩の工,大峠の峰を抜く全長119mの大峠隧道貫通を経て,明治17年8月に福島県側の道が完成した.幅員4.5m,81ものヘアピンカーブと最大勾配12%で登り上げるすさまじい道の誕生である.一方の山形側はこの完成を見届けた10月27日に起工式が行われ,2年後の明治19年秋に完成を見ている.
 完成後の峠道は,しかし,あまり重要視されることがなかったようである.全開通からわずか2年後,この峠を視察した当時の山形県令・柴原和は次のように語っている.「本年に至りその隧道の如きは追々下から破壊の箇所も少なからず,目下梯子を以て隧道内を昇降し通行するの有様なり.その隧道たる関山・栗子等と全く異」なる.さらには,このようなトンネルよりは数町の新道を山頂まで開いたほうが通行しやすかろうとまで言うほどの有り様であった.この状況は明治38年の奥羽線鉄道の開通により拍車がかかり,ほとんど忘れられた存在となってしまった.大正に入っても隧道は改善されず,昭和に至ってようやく改修の手が入るのである.

 この昭和の改修はちょうど万世大路の改修と同じ時期に行われている.これは決して偶然のものではなく,当時の時代背景に因るところが大きい.昭和の初期,再三の不況に襲われて疲弊していた日本経済を抜本的に改善するため,時の浜口雄幸内閣は金輸出の解禁を断行し,外国為替相場の安定と経済界の安定を図ろうとした.だが,それは時すでに遅く,昭和4年(1929)10月に始まった米国恐慌が世界中を巻き込む恐慌に発展していた.解禁による不況と合わせて二重の打撃を受けた日本経済は,のちに昭和恐慌と呼ばれる深刻な不況に陥っていくのである.
 最も打撃を受けたのは農村であった.植民地からの米の流入によって米価が低迷していた中でのこの恐慌であり,各種の農産物価格が次々に暴落.兼業する職もなく,逆に都市からは職を失った者たちが帰農し,事態はさらに深刻になっていった.東北地方で娘の身売りが横行したのもこの頃であった.
 そんな暗い時局を打開すべく行われたのが,道路工事を始めとする各種の土木事業であり,その過程で大峠や万世大路の改修が行われたのであった.昭和5年には国の直轄工事による失業対策目的の改良工事が始まり,昭和7年には「時局匡救」のための特別予算が成立,本格的な農村救済事業が開始される.ちょうど大型トラックによる運輸が盛んになりはじめた頃でもあり,それまでの道路では幅員が足りなくなっていたのも,こうした道路工事に拍車をかけた.大峠道路の工事は昭和7年に着手され,大峠隧道の幅員を6mに拡幅するなどの大改修を経て,昭和10年に竣工している.

 昭和の改修でトラックやバスの運行も「可能」になり,昭和40年代までは路線バスすら通っていたというが,やはり時代は1100mのこの峠とヘアピンカーブ群に愛想を尽かしてしまう.地形を克服し,冬期の通行を可能にするためには,もはや別の所へ道を通すしかなかった.そうして完成したのが現在の国道121号,全長3900余mの大峠トンネルとその仲間たちだ.2002年現在日中まで開通している新道は,7つのトンネル・愛称虹のトンネルと数多くの陸橋を駆使し,道の90%以上がトンネルか橋ではないかというような,これもある意味凄まじい道である.報告者は山形から大峠を越えた後,この新道を使って再び山形へ戻ったが,その有難味が身に浸みて解ったことであった.

■参考文献 References

  • 『山形県史』,山形県
  • 『米沢市史』,米沢市,昭和58年(1983)
  • 『三島通庸と高橋由一にみる 東北の道路今昔』,1988
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