国道8号旧道:考察・参考文献

■考察 Discussion

 国道8号の旧隧道郡の歴史を詳かにしようとすると,どうしても明治初頭の福井県政に触れなければならぬ.長くなるが御容赦願いたい.

 明治四年に廃藩置県が断行された当初は,諸藩幕領が入り乱れていた現県域に10もの県が成立したという.しかしこの年の師走には,旧福井藩を中心とする福井県(のちに足羽県と改名)と,若狭国を治めていた小浜藩に,敦賀,今庄,南条の三郡を合わせた敦賀県の2県に整理統合された.さらにそれは明治6年,足羽県が敦賀県に吸収合併される形で一つとなる.
 合併前の敦賀県は政府の肝入りで作られたようなものだったから,自然の成行きで敦賀に県庁が置かれた.しかしそれが,木ノ芽峠の嶺を境とする南北対立へと発展し,嶺北・嶺南という新たな概念ができることになる.日本海側の海運と関西をつなぐ港として発展しようとしていた敦賀,旧福井藩城下として文化的素地があった福井.明治8年から9年にかけて,そのどちらに県庁かあるべきかで陳情合戦が繰り広げられた,

 そんなさなかに作られたのが,敦賀〜杉津を結ぶ「東浦道」であり阿曽隧道であった.敦賀から北に伸びる道の建設は,敦賀の県庁を既成事実化するためのねらいもあっただろう.この道は国の幹線としてではなく,敦賀県の独自施工で行なわれている.一方で,武生の側から「春日野新道」が作られたのもこの頃だ.七曲峠を越え,具谷・赤萩を経て河野浦につながる春日野新道は,河野村に居を構えた北前船主・右近権左衛門や中村三之丞らが中心となって開いたもので,敦賀〜河野間の海運とこの道路をつないで北陸方面への荷を運ぼうとしたものだ.明治5年に開鑿請願が出され,明治7年にそれは完成している.当時は通行銭をとる有料道路であったという.

 一つの県のなかでいがみ合った県庁論争は,敦賀県自体が消滅することで自然解消してしまう.明治9年8月21日に敦賀県は廃され,嶺北七郡が石川県に,嶺南は滋賀県に吸収されてしまうのである.そうして,海岸線をゆく道路の建設はそれ以上の発展を見せなくなる.かわりに明治11年,明治天皇の巡幸に合わせ,木之本から栃ノ木峠を越えて今庄に出る北国街道の整備が行なわれている.

 嶺南地方を吸収合併した滋賀県はともかく,越前・加賀・能登・越中の4カ国が集まった形の石川県は,かなりの混乱を来したようである.11年7月の地方三新法(「郡区町村編制法」「府県会規則」「地方税規則」)がそれに拍車をかけた.異なる風土の地域の利害関係が議会で対立し,見るに見兼ねた県知事からも分県の必要ありという上申書が出されている.政府もそれを受け入れて,明治14年2月7日,再び福井県は元の領域を取り戻した.ただし県庁は福井に置かれることになった.

 海岸線をゆく道に再びスポットライトが当たるのは,18年3月のことである.当時の福井県令・石黒務によって,積年の悲願であった越前〜若狭を貫く道の開鑿が議会に提案され,可決されたのだ.武生から春日野峠を経て,太良,元比田,杉津を経由して敦賀へ至る幅三間の車道「春日野道」の建設.さらに敦賀から若狭国を横断する丹後道を幅二間の車道を開鑿して,山陰道につなげようというものだった.それは地理経済的な発想であったばかりでなく,嶺北・嶺南という分断意識を取り除き,福井県を一つにまとめたいという願いも込められていた.
 無論,車道開鑿は県令一人の思惑によるものではなかった.福井県の財界人・伊藤真ら福井士族の根回しがあってのことだ.分断・合併を繰り返し「県民意識」が醸成されないことを憂え,商工業の発展のためにも敦賀へ向かう道の整備が必要だと考えていた伊藤は,明治17年に来県した農商務省幹部に車道開鑿を訴えるとともに,商工会をあげて道路建設を強力に押し進めた.武生,敦賀の商工界の支援を取り付け,在京旧領主─扁額にその名も刻まれている源慶永─などからも募金をつのり,集めた資金は3万5千円.それを下地として県会に働きかけ,県令を動かしたのである(奥山氏「明治福井のまちおこし(下)」より)。

 春日野道の工事のハイライトが春日野隧道,金ケ崎隧道であったことは間違いない.しかし,両者が正確にいつ竣工したのかははっきりしない.「調査」の項で述べた通り,金ヶ崎隧道には明治19年11月,春日野隧道には明治19年12月の扁額がある.しかし福井県教育委員会の資料によると,金ヶ崎隧道の竣工は17年であるといい,それは道路開鑿の申請が出される前年である.すでに竣工していた東浦道とつなげるために金ヶ崎隧道ができ,それを足掛かりにして越前・若狭縦貫道路の改修計画が持ち上がったとされているのだ.これが正しいのであれば,春日野隧道の銘板の日付も,必ずしも竣工年月を記していないのではないかと心許なくなってくる.そのあたりの事情を,資料の出どころである敦賀市教育委員会にぶつけてみたが,竣工年月に関する明確な資料は見出せないままだ.一年二年の違いに目鯨を立てずとも,と思わないでもないが,それによって現存道路煉瓦隧道の二番三番が確定するのだから.あながち拘泥し過ぎとは言い切れぬ.
 同様に,阿曽隧道の石組ポータルの完成年にも疑問符が残る.明治9年に東浦道ができ阿曽隧道が穿たれたことは間違いないが,当初から石ポータルであったかどうか.これも明らかな資料が見つからない.桜橋のところでも触れたように,北陸では石でアーチを作ることは珍しいことであった.近代技術が広く行き渡るより以前─鉄道の逢坂山トンネルは明治 年竣工─にそのような状態であれば,なおさら難しいのではないか.逆に言えば,本当に明治9年竣工ならば現存最古の道路用石ポータル隧道である以上に特異な建造物であることになる.なお大正5年の敦賀郡史には阿曽隧道の写真が載っており,この頃にはすでに存在していたことは確かである.
(※付記:明治17年4月,福井県から内務・大蔵両省に対して出された上申書「道路開築費御補助之義ニ付稟申」を見ると,春日野と金ケ崎に新たに隧道を穿つ計画であるように書かれている.やはり金ヶ崎の隧道も明治19年竣工というのが正しいようだ).

 春日野,金ヶ崎の隧道建設の技術は,明治13年から17年にかけて行なわれた鉄道建設事業にともなって導入されたものと考えられる.敦賀市に残る小刀根トンネル(明治14年竣工),柳ケ瀬トンネル(同17年竣工)は冠木門石ポータルに煉瓦巻き───ただし鉄道トンネルはΩ型に近い馬蹄形で,煉瓦はイギリス積み───であって,基本的な構造は春日野・金ヶ崎の二隧道と同じだ.独り阿曽隧道だけが違うが,アーチの形状は金ヶ崎,春日野隧道の釣鐘型を受け継いでいる.あるいは阿曽隧道の石ポータルが先にあって,それに習って鉄道トンネルの巻き立て技術を応用したのかも知れぬが,報告者としては明治17年以降の春日野道整備に伴って石ポータル化されたのではないかと考えている.

 ちなみに,金ヶ崎隧道の隧道工事を請け負ったのはかの藤田組である.土木学会附属図書館のデジタルアーカイブス中にある「工學會誌 明治19年3月号」に,天筒山隧道としてその工事のいきさつが記されている(隧道の抜ける山が天筒山).先述の鉄道トンネルはいずれも藤田組が関与したものであり,その流れからしても至極当然のことだろう.工學會誌にはその他の隧道のことが出て来ないが,形状の似通った春日野隧道,そして阿曽隧道も,藤田組が関与している可能性がある.ただし県史などでは地元住民も工事に参加したとあるから,全く彼らだけによる仕事ではないようだ.
 また,請け負い者が同じでありながら,小刀根トンネルや柳ヶ瀬トンネルと金ヶ崎隧道の意匠はかなり異なることにも注目すべきかも知れぬ.馬蹄形vs放物線アーチというのは鉄道か道路用かの違いであると考えられるが,坑道の煉瓦アーチの終端の処理=ポータルのアーチ環の素材も違うのである.

 武生と敦賀を結ぶ道は,明治22年になって「敦賀道」と改名され,全額県費負担の第一条道路となった.37年3月には金沢の第九師団と舞鶴鎮守府を結ぶ要路として国道53号線に指定されている.大正9年の旧道路法において国道12号,さらに昭和27年の「一級国道の路線を指定する政令」で,現在の8号という国道番号に辿りついたのだった.春日野から河野村赤萩にかけての隧道群,元比田をバイパスする敦賀トンネルは有料道路として建設され,昭和40年代に償還を完了している(松波氏「国道紀行・国道8号」より).なお河野村史にある新聞記事によれば,大谷の隧道群も桜橋・具谷隧道群とほぼ同時期に建設が進められており,昭和30年代後半にはすでに完成を見ていたようだ.現在の国道9号にかかるトンネルは昭和末期の銘板があるが,のちに拡幅工事がなされたものと思われる.トンネル脇に残る旧道は,そういう意味からすれば春日野道時代の遺構と言えないこともない.

■参考文献 References

■謝辞 Acknowledgement

 資料を提供下さった福井県,敦賀市,河野村の各教育委員会の方々に感謝.


 

 

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