|行政:山形県東根市〜宮城県仙台市青葉区標高:600m
1/25000地形図:関山峠(仙台6号-4)調査:2002年8月


 江戸時代、山形城下と仙台とを直接結びつける道として3つの街道があった。笹谷峠を越える笹谷街道、山伏峠あるいは清水峠を越える二口街道、そして関山峠を越える関山街道(作並街道)。仙台側からは「西道」と呼ばれていたこの三街道のうち、標高から見れば関山峠が最も低いのだが、にもかかわらず初期の関山峠の利用率はずいぶん低かったようである。幹線として活躍しはじめるのは、明治15年に関山隧道が開通し、車や馬が通れるようになってからのことだ。

 この新道と隧道もまた、『土木県令』・三島道庸の発案によるもである。当時建設中だった宮城県の野蒜築港が東北開発の拠点になると考えた彼は、山形の産業とこの港とを連動させるため、両者を最短距離でつなぐこの道に着目したのだった。延長280m余りの隧道を含む新道建設は、明治13年に着工、大きな火薬爆発事故などもありながら、翌々年の15年に完成している。初代の隧道は栗子隧道と同様の素掘りのトンネルであり、昭和初期に改修を受け、そのトンネルが旧道として残っているというのも栗子隧道と似ている。

 そんな隧道は現在、宮城側の出口がH字鋼によって塞がれており、峠道も廃道化してしまっている。たいへん頑丈なバリケードなため、おとなしく山形側からピストンすることをお勧めしよう。




 山形側の旧道は現在の国道が通っている谷とは別の谷にある。関山トンネルの2kmほど下流側で分岐し、分岐してすぐに地道となる。ほとんど道と一体化しているボロボロの橋を渡って谷の右岸へ。旧隧道はこの右岸道の最上部に待っている。





 轍は一本しか見えないが、万世大路に同じく1.5〜2車線幅であったことが伺える道のつくりをしている。しっかり締まった砂利の上に薄く苔がはった所や、岩盤を平らに削って道とした箇所、岩肌もあらわな切り通しなどもあって、往時の苦労がよく偲ばれる道である。上に行くほど荒れるのがお決まりのパターンであるが、ここは逆に、登れば登るほど2車線の幅があきらかになってくるのが面白い。


 押しも交えつつ、30分ほどで隧道に着く。トンネルの入口左手の斜面から土砂が崩れ掛かっており、真正面から隧道全景を見ることはできない。内部も1×1mほどの落盤があって、段々と崩壊が進んでいることを知る。コンクリート敷きの隧道を抜けて宮城側へ行くことは可能だが、その先には確かに柵がしてあって通り抜けることはできない。出口付近には水も溜まっており、辿り着くことのできない宮城側の風景が写し込まれているばかりである。

 




 因みに、新道沿いにある関山パーキングには、このトンネルを行き来した文人の句碑・詞碑が数多く建てられている。正岡子規の「とんねるや かさにしたたる 山清水」という句碑を、廃道となったトンネルを訪れた直後に見た報告者は、得も言われぬ感情を覚えたことであった。彼も旧道倶楽部員であったのか、という軽い誤解と共に。



 

 

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