■考察 Discussion

 森田庄兵衛は1862(文久2)年,現在の和歌山県かつらぎ町に生まれた.上京し慶應義塾で経済学を学んだ彼は,教育家・実業家として成功し,貴族院会議員や銀行の頭取なども務めたという.その彼が新和歌浦の景勝に着目して一大観光地を作りあげようとしたのだった.彼の晩年,明治42年のことだ.
 旅館はおろかまともな道さえなかったこの土地に,道路を築き隧道を穿たせて,雑賀崎までの一帯を「新和歌遊園地」として開発した.森田は大正3年に没しているが,その頃新和歌浦は旅館や料亭も建ち始め,和歌浦口から新和歌浦まで市街電車が通じ,浦が背にする章魚頭姿山には桜や楓が植えられて,遊歩の客を楽しませるまでになっていたようである.大正14年には南海遊園会社が設立され,いわゆる遊園地,水族館の建設も計画されたと和歌山市史にある.

 観光地として本格的に発展するのは第二次大戦後のことになるが,第二隧道の袂に建てられた碑はその頃の産物.新和歌浦の観光組合が,翁の徳と先見性に感謝して,建てたものだという.

 道すがらに作られた隧道は,新和歌浦という新興観光地への入口としての役目を担っていた.すぐそばには万葉の昔から知られた和歌の浦がある.それに負けない集客をするうえでも,何か奇抜な「誘うもの」を必要としたのだろう(事実,和歌浦にはほとんど同じ頃にエレベーター式の展望台が作られ,人々を驚かせた.その様子は夏目漱石の「行人」にも描かれている).隧道の過剰なまでの装飾はその辺に理由がありそうだ.そうしてそれは,ある一個人の事業によるものであった.もうお分かりかと思うが,小破風の丸十字は森田家の家紋である.


 報告者の手元に数葉の絵はがきがある.新和歌浦の宣伝のために作られたもので,正確な発行年は不明だが,すでに旅館街が完成している所からして大正〜戦前のものだろうと思う.多くは新和歌の自然を写したものだが,むしろ報告者は,旅館街や隧道といった人臭いもののほうに興味を惹かれる.

 新和歌浦第一隧道の北口.坑道の髷の後ろ姿と比べるとどれだけ大きいかがわかる.アーチ部分に千社札が多数貼られているのも面白い.発展を見せようとする近代の土木技術と,徐々に廃れて行こうとする近世の大衆文化,それがこの場所・この時間に,交点を結んでいる.

 左手に見える看板も,看板であること以上の何かを物語っている.明らかに隧道ポータルを模したものであり,中央の部分は質感からして絵を描いたタイルを張り並べたもののようだ───そう,ここでもタイルが登場する───.左右の柱には「料理旅館・仙集館」の名前が見える.恐らく森田自身か,あるいは森田の息のかかった者が経営する宿だったのだろう.またこの看板は,ポータルに似ているとはいえ,破風の左右にも柱があるなどの違いが見て取れる.あるいは仙集館がこのような造りをしており,隧道と仙集館とに共通する意匠だったのかも知れない.丁度,寺社の門を潜って参道を歩き,本殿に到着するような,そんな関係があったのかも知れぬ.

 新和歌浦全景.恐らく第一隧道を出たところか,隧道上の小山から写したものだろう.断崖に沿って投入堂よろしく柱を張り巡らした建物が並んでいる.その奥に見える大きな建物と岬が,隧道絵葉書の看板に描かれた風景だ.第二隧道もこの付近だと思われる.


 

総覧へ戻る