■調査 Experiment

 広川ビーチ駅から由良洞を経て日高入りした報告者。そこから県道を北上して鹿瀬洞を目指した。沿線はほとんど標高差のない谷で、ずいぶん奥まで田畑と集落が広がっている。特にこの辺りは明治より前の熊野古道が通っていた場所。 王子や石畳道、茶屋跡なども残っているらしく、その案内看板があちこちに残されている。そうしてどれもが、心無しか妙に新しい。しばらくぶりに脚光を浴びた彼らの影で、明治の熊野街道(当時は和歌山街道とも言った)その他の旧隧道は少し肩身の狭い思いをしているように思える。ここで報告する鹿瀬洞などもその仲間だ。

 峠近くの登りはさすがに山々した風景だが、それとて標高200m程度。それほどきつい登りではない。新トンネルへのおかしな道形ーーー2車線トンネルを抜けて陸橋を渡る計画らしいのだが、それがまだ出来ていないためにトンネル前まで「下らなければ」ならないーーーを過ぎて鹿瀬洞。実際の所、行程はこれくらいにあっけない。

 蔦に覆われているが堂々とした構えのポータルである。石製のピラスターがとにかく太い。何より微塵も損傷がないのが驚き。後で調べたら新トンネルは1999年竣工で、鹿瀬洞は明治39年だから、実に百年間もこうして建ち続けている訳だ。由良洞が傷だらけで虫の息なのに比べれば新築同然と言っても過言でない(いま写真を見直したら、向かって右手のピラスター上部が崩れているような。しかし扁額は無事だった)。いずれにしても明治の隧道がこれほど狭い範囲内で現役道路として活躍しているのは珍しいと思った。しかも路線の目的としては同じ軌道の上にある。「和歌山の人は古いものを大事にする」と、その肩を持ちたくなる由縁はここら辺にある。

 煉瓦巻きは入口の10mほどだけで、残りは素掘りにコンクリートを吹き付けてある。内部がとても広く感じる。東側は坑口の先(出口といっていいのか、この場合は)で右に曲っているため見通しが悪いという、古いトンネルにありがちな構造だ。この隧道前の掘り割りもかなりの深さがあって難工事だったことを思わせる(この隧道を作ったのは地元の小池組という建設業者。そのサイトに当時の写真もある)。

 東側、広田町のポータル。蔦がない分、見栄えはこちらののほうが良い。洞瀬鹿と刻まれた扁額も露わである。三顆印もある立派な書で、デジカメ画像を拡大すると、当時の和歌山県知事 の書のようだった。

■考察 Discussion

 由良洞と鹿瀬洞の関係については明治隧道projectでも少し触れた。明治16年に府県道制が敷かれた時は旧熊野街道をそのまま県道に昇格させている。  もちろん当初は山道そのままであり、荷馬車すら通れぬ有名無実な県道だった。熊野古道が木津から日高に抜けるために由良の地がおいてけぼりを食らわされることにもなった。そこで明治22年、荷馬車を通せる県道を由良に誘致する目的で由良洞が作られた。その成果あって県道指定も由良洞経由へ移っている。

 ただし、由良経由の道は一つ難所を増やすことになった。水越峠だ。恐らく今の県道南金屋由良線が当時の道だったろうと思うのだが、史実はどうなのだろうか。山を何度も巻き直して登って行く道で、距離的にものすごく損をしているし、あめふらし氏のルポなどを拝見する限りではよほどの難路だったろうことが想像される。今でさえああなのだから…。

 由良洞の完成からわずか10数年後に鹿瀬洞が作られたのも、水越峠越えがよほど嫌われた結果だと思う。もしくは栄華を取り戻すための誘致が強力に展開されたかのどちらか。少なくとも鹿瀬洞経由ならば1度の登り降りで済む。そうして明治末期の県道和歌山街道は鹿瀬洞経由となっている。  

 わずかな期間で存在意義のほとんどを失ってしまった上にボロボロな由良洞。一方で長く主要道を担っていた鹿背洞の健在ぶり。その後、水越トンネル他の完成で再び幹線道が由良に戻って来るまでの半世紀を働いてきたということと、その間由良洞が無為に過ごしていたのだろうと思うと、いささか皮肉めいた因縁を感じる。


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