|行政:兵庫県朝来郡山東町〜氷上郡青垣町標高:360m
|1/25000地形図:矢名瀬(姫路1号)調査:2004年5月


■背景 Background

 遠阪峠は旧道とは云え,今だ現役の峠路である.丹波と但馬,言い替えれば中央分水嶺越しに兵庫県の南北をつなぐ峠.昭和52年に遠阪トンネルが完成したが,有料のそれを使いたくないドライバーや,峠付近にある温泉保養地へ向かうバス車はまだまだ多い.またトンネルは,自転車の通行が禁止されているため,我々自転車は否応無く旧道を登らなければならない.否,旧道倶樂部はこの場合,応しかない訳だが.


■調査 Experiment


 西側,山東町柴地区の端にトンネルへの分岐点がある.ここから見る峠は極めて明確で,至らなければならない峰も比較的低い所にある.峠直下のガードレールが見えているが,さほど気にならない高さと距離感だ.麓かかここまではゆったりした2車線巾で,開放感もあり,車でなくても快適な走りができるが,分岐を過ぎると森の中に入って行ってやや窮屈になってくる(下写真).


 カーブを曲る度にワインディングが厳しくなっていくが,それでも道は2車線であることをやめない.スピードは出なくともいいから大型車が通れるようになりさえすれば,という思惑が道から伝わって来るようだ.2車線車道のワインディング旧道というと,権兵衛峠の奈良井側の例があるが,遠阪峠はそれほど酷くもない.報告者はむしろ現国道の,園部町の国道372号・天引峠を思い出してしまった.あちらは東側で,道の附き方は正反対になるが,杉桧の植生だとか谷の見え方(標高差)だとかがそう思わせたのであろう.

 分岐から見えていたガードレールまで登ると,和田山の盆地が綺麗に見渡せる.この開け方は,今度は滋賀県の鞍掛峠西側の大ヘアピンを連想した.山東町とその向こうの和田山の盆地は山の裾が複雑に入り組んだ盆地のため,広々とした感じはないが,なかなか面白い光景だ.
 粟鹿温泉の敷地が見え出す頃には,峠道の勾配も緩くなって,道の先に峠の頂きも見えて来る.登りながら休める勾配である.道の左手に旅館の本館が鎮座し,道に沿って屋内ゲートボール場やパットゴルフorマレットゴルフ場らしい屋根つきのグラウンドが続いている.なかなかの盛況ぶりである.


 温泉敷地を外れると,左手に小さな広場.昭和28年に始まって44年に完成したこの道の改修工事を記念する碑が置かれている(後に述べるが,この舗装路は主要地方道山東柏原線として整備されたもの.国道指定はその後である).裏手には半分に折れた一石一字塔もあるが,逆に場違い感がないでもない.

 遠阪峠.そっけない切り通しである.峠の看板等は一切なく,あるのは町境の看板だけで,虚飾を排し機能を追求したかのような峠である(右は峠から但東町側を見る.左は但東町側から青垣方向).遠阪への下りは,直下に大きなカーブがある以外は直線部分が多く,快適に下る事ができる.あまりに快適すぎて写真を撮るのを忘れる程.逆に云えば,遠阪側から登ると直線upが続く自転車泣かせの道と云えるかも知れない.

■考察 Discussion

 青垣町遠阪は,この道が但馬街道と呼ばれていた頃からの古い宿場町である.青垣町佐冶から西して但馬に向かう道.遠阪はその道が最初に出会う嶮・遠阪峠の足掛かりであった.
 街道制度が整えられた江戸時代を中心に,明治の初め頃にかけて「宿場町」として機能.旅籠宿や商家が軒を連ね,『うるしや東森屋,かどや,きく屋等の昔の宿屋の名をなつかしむ人は多く,農家にも紀州屋,ます屋,かづき屋,糸屋等昔の商家であった面影をしのばせる屋号が残っている』(青垣町誌P274)という.町誌では農家には珍らしい妻入り造りの民家が多いことも触れられているが,報告者は気付かずに通り過ぎてしまった.道に沿って整然と家棟が並んでいたのだけは覚えている.
 また町誌によれば,遠阪峠道は昭和の初めにはすでに車道巾への改修と舗装化がなされたようだ.それが戦後になって,主要地方道山東柏原線としての本格整備が始まった.昭和28年から県の事業として拡幅整備に着手したが,集落に近い位置の道路整備にとどまっていたようだ.31年に関係市町村による「山東柏原線改修期成同盟会」ができてから工事は活発になり,32年には峠の切り下げ・幅員6mへの拡幅工事に着手.山東町から柏原に至る全線の工事が終わったのは,着手から実に16年も経過した,昭和44年のことであった.
 この年の4月に完工記念式典が行なわれ,期成同盟会は記念のしおりを発行している.その挨拶文が青垣町誌P470〜471に掲載されており,当時の状況を知るよすがとなっている.ちょっと長くなるが引用してみたい.

 
 県道山東柏原線は但馬阪神連絡道路として兵庫県における八大幹線の一つに数えられている主要地方道でありますが,山東町から青垣町佐冶に至る道は,幅員狭隘にして自動車交通の用に耐え兼ね,殊に但馬,丹波の境界をなす遠阪峠は,勾配急峻である上に危険なスイッチバックがある等激増する交通量に適応し難い状態にありました.このため沿線住民は,この改修の必要性を痛感し,昭和三十年関係町村相集まり,山東柏原線改修期成同盟会を結成して,この路線の改修促進に立上り県当局及政府に対し強力な運動を展開したのであります.
 幸いにして県及び政府におかれては,この路線改修の必要性を認識され,昭和二八年度より県単事業により山東町和賀地区で着手されていた改良事業を,昭和三二年度より本格化されて急ピッチで改修が進められ,爾来ここに十二年,昭和二八年度の着工より十六年の歳月と約五億二千万円の巨費を投じて,昭和四三年度をもって全線にわたって拡幅改良及び舗装が完了し,昔日の面影を全く止めぬ近代的自動車道路が完成したのであります.
 この路線改修完了により,但馬,丹波地域とを結ぶ時間的距離は著しく短縮され,県北地帯全般の経済文化の工場発展に大いなる役割りを果たすこととなりました事は,地域住民として,感謝と喜びにたえない次第でございます.
 思えば長い長い待望と焦燥の明け暮れでありましたが,今日この光り輝く舗装道路を目のあたりにして,今昔の感一入深く目頭の熱くなるのを禁じ得ないものがあります.
 この事業の施工に当り,終始深い理解を寄せられた県当局及び県議会並びに直接工事を担当された業者の方々そして又用地物件等について多大の御協力をいただいた沿線の皆様に対し衷心よりお礼を申し上げ喜びのごあいさつといたします.

昭和四四年四月二五日
兵庫県山東柏原線改修期成同盟会

 しかしながら.峰越えの峠道が廃れていくのは定めだ.改修によってカーブが緩和されたとは言え,最初に報告したようなワインディングである.しかも中央分水嶺の峠として冬季は積雪に悩まされた.「整備されたとはいえ曲折の多い嶮路遠阪峠は,冬季の積雪によって交通を阻害されることが多く,太平洋と日本海を結ぶ産業基幹線としての真価を発揮するためには,遠阪トンネル開削以外にない」(青垣町誌.P472)という判断が,完成直後にはすでに出されていたようだ.改修から4年後の48年初頭に基礎調査を終え,四十八年度予算で着工の計画が出来上がったところで町誌は終わっているのだが,冒頭で触れた通り,昭和52年に遠阪トンネルが開通した.このトンネルもまた,播但道和田山ICと近畿道春日ICをつなぐ「北近畿自動車道」の一部となって,新たな歴史を刻むことになっている.

 遠阪峠を越える道は,さらにその5年後,昭和57年に国道427号の指定を受けている.峠の改修記念碑はそのことを知らずに,当時の道を見守り続けている,などと書いてしまうと感傷に過ぎてしまいそうだが,何故か報告者はそんな言葉が頭に浮かんだのであった.

■参考文献 References

  • 『青垣町誌』,青垣町,1975

 

 

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