浦代隧道(考察・参考文献)


■考察 Discussion

 浦代隧道の歴史は,米水津村初の外部への道路だっただけあって,詳しく村誌に書かれている.施工者もその請負者も判っている珍しい例である.だがその前に,村の歴史を紐解いて,隧道がいかに必要とされていたかを知るのも悪くはないだろう.それは県南を等閑視していた報告者自身への戒めにもなる.

 米水津村は明治22年4月,小浦,竹野浦,浦代浦,色利浦,宮野浦を併合して生まれた.当時の人口は4819人.12郡14町265村あった県下でも18番目という人口の多い村であった(報告者の生地に当たる万年村よりも多い!).後に間越,芳ヶ浦をあわせて鶴御崎まで延びる村域となる.リアス式海岸の入江のまるまる一つが一村になったわけである.
 しかしながら,山を越して外部とつながる道はいずれも『兎道』───村誌ではこう表現する.報告者も初めて聞いた───であった.外部につながる道を持たないということは,当然の結果として村内の道路の発展も妨げた.それぞれの在所を行き来するのでさえ,かぼそい山道か,船によらなければならなかったようだ.村誌には古老の話として次のような話が載せられている.一つ一つの地名に実感は湧かなくとも,気の遠くなるような道であったことだけはしかと伝わってくる.

「小浦より浦代浦迄は舟便であった。陸路は竹野浦より平間山を越し、久保浦の中腹を通り、観音様の坂道を通りてワロウラに下りて浦代浦に来た。其の道は昭和の四、五年迄も学校生徒(尋常小学校)は通学した。・・・(中略)・・・色宮道も田鶴音より上がり、墓場を通りて山の中腹を通り、白浦に下りて大内浦道に上がり、山を越して色利浦に行って居り、通学生徒は其の道を通り来たもので、今の老人会の人達は皆経験者の筈だ」

 頼りの船も,細く長く東西に延びる鶴御崎に遮られるため,佐伯へ出るのさえままならない.風雨が強ければ舟も出せず,まさに陸の孤島となる.浦代峠はそんな米水津の生命線だった.藩政時代は「牛馬の道なし」とまで云われたこの峠だったが,時代の流れに従って改修の手が入れられてゆく.明治の初めには浦代浦の戸長であった旧佐伯藩士・小林隆吉によって沿道に山桜が植えられた.明治26,7年頃に国木田独歩とその弟が訪れた時には茶店もあったようである.

 浦代峠に近代的な道路建設の槌音が響き出したのは,明治も末になってからのことだ.40年に米水津村と,峠を挟んで隣り合う木立村との間に土木組合が結成され,翌年6月1日に工事に着手.3年の歳月を経て43年8月30日に竣工している.
 総工費は2万4,567円80銭8厘.120間(約216m)の隧道建設にその半分近い1万1,598円を費している.建設費のうち6,944円53銭3厘は米水津村の負担で,うち3,000円は村債として賄った.郡役所で工事の入札を行なったが手がつかず,3度目の入札でようやく佐伯の竹田繁太郎が落札,西上浦浪太の藤田徳治ほか1名が請負ったというエピソードも記されている,残念なことに,村誌ではただ隧道と記しているだけで,今日見られる石組みポータルが当時のものという確証はない.だが報告者は,隧道を見て感じた懐かしさから,そして期待も込めて,明治43年製であると考えたい.

 明治44年からは馬車による物資の運搬も始まって,この年の5月17日には落成式・祝賀会が執り行われている.平成2年に成った村誌でさえ「村に新紀元を画した」と表現するほどに,それは村にとってepoc makingな出来事だった.

 旧道の山桜の故知に倣って,新道沿線には吉野桜が植えられた.大和吉野から取り寄せた正真正銘の染井吉野である.三月の終わり頃から旧道の山桜が咲き,それが散り始めると新道の吉野桜が山を染める.その見事さは県内でも指折りのものとして観光名所となったという.「咲きものこらず散りもそめざる風情もまたなきもであるが,つづら折りの山道,花花の雪にふみまよう景趣もまた筆紙につくされない」と,当時を語る古老の言葉も鮮やかだ.  

 新道に桜を植えるならわしは,昭和44年の浦代トンネル竣工時にも受け継がれた.3月下旬から4月にかけて米水津村を訪れれば,約200本のソメイヨシノが第3のトンネルを作って迎えてくれるはずである.

■参考文献 References

  • 米水津村誌,米水津村教育委員会,平成2年(1991)

■謝辞 Acknowledgement

 資料を提供いただいた米水津村教育委員会の方に感謝.FAX紙づまりでお手数をおかけした.


 

 

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