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雄ノ山峠 (おのやまとうげ)

【標高】□174.4m
【行政】和歌山県那賀郡打田町
【経緯度】北緯:34°17′35″/東経:135°16′17″
【水系】男里川水系井関川〜紀ノ川水系雄ノ山川
【二万五千図】岩出:NI-53-15-11-3 和歌山11号-3
【五万図】粉河:NI-53-15-11 和歌山11号 \ S53修
【ツーリングマップル】関西 P58 3-H

 主要地方道・県道64号。紀州街道。

 H6入学の岡本(辰)氏より情報。
和歌山側は標高の割りには、15パーセントの勾配のままのヘアピンがあったりする、えげつない山岳路でした。峠は何もありません。
阪和道のそばを通るだけです。
大阪側はありきたりな峠道でした。
こちら側の山中渓(やまなかだに)は桜の奇麗な、静かなところです。
花見シーズンをはずしていけばいいところだと思います。(H9.4.)

■編集者のコメント

 ツアーの一発目に大阪側から登ったが、荷物の多さにずいぶんと泣かされた以外は上記の岡本氏の情報どおり。ちなみに北側の境谷との分岐にかかっている境橋は、日本最後の仇討ちが行なわれた場所らしい。だってそう書かれてあったんだもん。惜しむらくは登場人物とかその背後関係とかが一切書かれていないため、これだけでは詳細がわからない。
 Googleってみた限りでは、文久3年(1863年)に土佐藩士の廣井岩之助が父・大六の仇である棚橋三郎に対して行ったものだそう。実はちょうどこの年に仇討ち禁止令が出ており、公式には(?)認められていなかったのだが、その熱意に圧された当時の幕臣・勝燐太郎(海舟)の計らいによってこの地での仇討ちを許可されたという。
 ちなみに、禁止令が出る前の「認められた」仇討ちは、文久元年(1861年)に高野山で行われたもので、これがきっかけとなって仇討ち禁止令が出たそうな(http://www.asahi-net.or.jp/~pf8k-mtmt/kouketu/kouya.html)。さらに言うと、直接手を下しはしなかったものの相手を切腹に追い込んだという意味での仇討ちは1870年が最後とか(http://61.205.68.50/kikaku/cha/cha8-1.htm)。ってそんな一生懸命調べんでもいいか。(2002.6.:ながとみ)

■みなさんのコメント

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■関連リンク

・国土地理院地形図閲覧システム:雄ノ山峠 同葉に郷ノ峠
・国土地理院『うぉっ地図』:雄ノ山峠
・国土交通省空中写真:CKK-85-2-C22-27 / CKK-85-2-C23B-20 / CKK-79-4-C15-24 / CKK-74-9-C15-17, 18, 19 / CKK-74-9-C16-18, 19, 20
・ 阪南市のWebサイトより:日本最後の仇討ち


雄ノ山峠
 和歌山側から見た峠。左手に阪和道が通っている。(な)

境橋
 境橋はこんな感じ。小さなコンクリート橋。


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