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檜尾峠(ひのきおとうげ)

【標高】900m?
【行政】福井県今立郡池田町〜岐阜県揖斐郡藤橋村
【経緯度】北緯:35°47′39″/東経:136°22′44″
【水系】九頭竜川水系真名川(添又谷)〜揖斐川水系揖斐川(ソバク又)
【二万五千図】宅良(古木):NJ-53-7-10-3 岐阜10号-3
【五万図】冠山:NJ-53-7-6 岐阜6号 \ S50編
【ツーリングマップル】中部北陸 P52 1-G・N

 地形図には記載がなく、また道も残っていないようであるが、冠山峠と高倉峠の間にもう一つ分水嶺越えの峠「檜尾峠」があった。現在車道になっている冠山峠や高倉峠よりもこちらのほうが主要道だった可能性が高い。
 揖斐郡教育会発行の『道』によれば、徳山村ではかつて村びとのほとんどが福井県鯖江の誠照寺というお寺を信仰していたそうだ。もちろん鯖江と徳山は遠く離れている上に険しい山に隔てられているから、村の人が気軽に参拝しに行くという訳にもいかなかったのだろう。年に一度、その寺の上人様のことばを記した「御書様」と呼ばれる巻物が、上人様のかわりに村々を廻ったのだそうだ。この「おまわり」と呼ばれた巡行は、蠅帽子峠を越えて根尾村を回ったのち、馬坂峠越えで徳山へ入り、そしてこの檜尾峠で福井へと戻っていった。
 この「おまわり」は信仰の対象であったと同時に、ある種お祭りのような要素もあったようだ。「おまわり」の巡行は誠照寺のお坊さんだけでなく、それついて回った商人もいたらしく、「おまわり」が到着するとさしづめ縁日講のごとき活況であったらしい。『道』にはそのあたりも詳しく述べられていて面白い。  それにしてもなぜそのような遠くの寺を信仰したのだろうと思ったが、それもちゃんと『道』には記している。曰く、徳山にはこの地を支配した徳山氏一族を葬った増徳寺が本郷にあるだけで、村びとの寄り所となるべき寺がなかったこと、地理的には美濃地方よりも峠越えで福井との結びつきが強かったこと、徳山城主が福井の朝倉氏の家来だったので、誠照寺が美濃地方への布教活動を強めたことがその理由だろうとしている。

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■関連リンク

・国土地理院地形図閲覧システム:檜尾峠 『道』に折込の地図によればここが檜尾峠。ソバク又上流の右手
・国土地理院『うぉっ地図』:檜尾峠 
・国土交通省空中写真:CCB-75-25-C6-10, 11, 12 / CCB-75-25-C7-10, 11, 12, 13


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