【標高】1430m(ビーナスラインは1540m)
【行政】長野県諏訪郡下諏訪町〜小県郡和田村
【経緯度】北緯:36°08′42″/東経:138°08′38″
【水系】信濃川水系和田川〜天竜川水系砥川
【二万五千図】霧ケ峰:NJ-54-36-16-1 長野16号-1
【五万図】諏訪:NJ-54-36-16 長野16号 \ S54編
【ツーリングマップル】中部北陸 P72 2-G
国道142号。中仙道の最高地点であるが旧峠は和田峠スキー場のほうを通っていたようだ。地形図ではビーナスラインをトンネルでくぐる地点に和田峠とある。
『考古学では、全国的に少ない黒曜石の産出場所として有名です。ここで取れた石が全国のかなり広い範囲で発掘されるそうです。』[分水嶺ノート]
■編集者のコメント
下諏訪町の中心部から国道のとおりに行くと、諏訪大社へ向かって急坂直登して旅館街をトラバース(?)する。このあたりは路側帯がほとんどなく、かつこの狭さで4tトラックが多いためかなり苦労させられる。旅館街を過ぎてようやく歩道が現れるが、これも道の3分の2を使って街路樹が植えられており、自転車というものが世の中にあることをまるで無視した作りである。さらに悪いことにこの先は直登upの連続となり、麓で米2kgを買ったばかりの自転車はたいそう泣かされるのであった。
大桶橋の下には水戸浪士の墓。なんでこんな所にと思わないでもなかったが、解説看板を読んでいるとあの天狗党がらみだということを知って納得する。幕末の混乱期のまっただ中であった1864年(元治元年)、攘夷延期を不服とした水戸藩の急進的尊攘派・天狗党は武田耕雲斎らを筆頭として筑波山に挙兵。その心意を京都にいる一橋慶喜に伝えんと大挙して上洛し始めた。これを阻止しようとした幕府軍(松本・諏訪の連合軍)とこの地で交戦し、水戸浪士100余人が命を落とし、連合軍側にも被害が出たのだった。天狗党は死者をこの地に埋めて立ち去ったが、のちに高島藩が供養のために碑を建てたのだという。その時に判明した水戸藩士6人の名前が大きく刻まれた碑である。その後天狗党は西へ向かい、警備の裏を突く格好で蝿帽子峠を越えるが、結局は金沢藩にて降伏し果てるのであった。
ちょっと戻るが町屋敷の向こうからきれいな歩道が登場する。少しは楽になるかと思いきや、やっぱり登りは直線登坂でトラックの排ガスも厳しい。新和田トンネル手前の分岐までこんな道が延々と続く。旧道に入ったらまだマシになるものの、ここにすらも時折マイクロバスだとか4tトラックだとかが無理矢理にやってくるのだ。貴様らおとなしく2200円払えっつーの。
峠は嶺のわずか下を抜けるトンネル。右手斜面が低く見えており、なにやら道らしきものも見つけるが、調査の結果これは道でないことが判明。トンネルを抜けて北側から見ても、こちらへは道が下りてこないようだった(あるいは削り落とされたのかも)。
峠をはさんで両側に西餅屋・東餅屋の地名あり。西餅屋はすでに廃村となっているが東餅屋にはドライブインあり。(2002.7.:ながとみ)
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■関連リンク
・国土地理院地形図閲覧システム:和田峠
・国土地理院『うぉっ地図』:和田峠
・国土交通省空中写真:CCB-75-14-C10-13, 14, 15, 16 / CCB-75-14-C11B-5, 6, 7, 8