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母成峠 (ぼなりとうげ)

【標高】・972m
【行政】福島県耶麻郡猪苗代町〜郡山市
【経緯度】北緯:37°35′43″/東経:140°14′37″
【水系】阿賀野川水系達沢川(支川?)〜阿武隈川水系水上川
【二万五千図】中ノ沢:NJ-54-22-15-1 福島15号-1
【五万図】磐梯山:NJ-54-22-15 福島15号 \ S48編
【ツーリングマップル】東北 P23 4-H

 母成グリーンラインのピーク。戊辰戦争激戦の地。そもそもこの峠は守る会津軍にとっては「まさかこんな所から攻めてくるまい」という所であったらしい。参勤交代道である会津西街道・山王峠、白河街道・勢至堂峠に主力部隊は向けられ、母成峠を守るのはわずか800人。土方才蔵、山口二郎などの強者もいたにはいたが、三千人の征討軍を相手に守るには余りにも手薄だった。征討軍(政府軍)もそれを見越してこの峠を突破する作戦に出たようである。
 侵攻の報を受けた会津軍は現在の料金所付近から峠にかけての緩傾斜に三段の陣を構え、征討軍を迎え撃とうとした。一方で峠から東の山中に入った石筵川上流、勝岩という地にも布陣し、さらには征討軍に拠点を与えないよう、ふもとの石筵集落を焼き払った。1868年、明治元年8月20日のこと。
 翌21日、征討軍は本隊を街道筋へ進めると同時に、勝岩へも一部を向けた。戦闘は朝9時に始まり、本隊がじわじわと峠に迫る一方で、右翼隊の一部が勝岩のさらに東の山中に入り、これを側面から攻撃。二方から攻められた勝岩陣は大崩れし、その報を受けて峠の本陣もたまらず敗走する。戦闘開始から7時間後、こうして会津藩防衛線の一角が崩れ、一気に若松城へと攻め入られるのである。この勝岩への側面攻撃を手助けしたのが、会津郡に村を焼かれた石筵の人々だったという。(な)

■編集者のコメント

 県道24号に入ったところからすでに進行方向の嶺が大きく凹んで見え、「あそこが峠だな」と思わずにいられない。が、あとで思い返してみると峠付近はそれほど明確な鞍部ではなかったからきっとダミーだろう。料金所までも緩く長くの退屈な登りだが、料金所の先からはさらに展望もなくなって、ちょいきつめの一定勾配を淡々と粛々と登る。いかにも自動車向けの道らしい。カーブの海を過ぎてからも変化に乏しく単調な道が続き、峠までが非常に長く感じられる。
 峠附近はいったん狭い沢沿いを抜けて平地となり、その縁を周るようにして嶺を越えていく。面白いのは峠の部分で道が2手に分かれ、どちらでも「峠越え」ができることだ。嶺の向こう側には大きな駐車場と母成峠古戦場の碑。二つの道にはさまれて高台になった部分には階段がつけられており、その上部は草に埋もれているが平らに均されている。あるいはここが陣跡なのかも知れぬ。峠から西への展望がなかなかで下りも快適。登ってきた側も、下ればきっと気持ちよいに違いない。(2002.8.:ながとみ)

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■関連リンク

・国土地理院地形図閲覧システム:母成峠
・国土地理院『うぉっ地図』:母成峠 
・国土交通省空中写真:CTO-76-23-C21-23, 24, 25


母成峠道
 石筵集落から見上げた峠。(な)

母成峠
 峠。右手の分岐を曲がっても、正面の道を進んでも峠越えできる。(な)

古戦場碑
 峠の古戦場碑。(な)

母成峠
 分水嶺上には陣屋跡と思われる区画あり。(な)


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