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こだわりの分水嶺


分水"例"-6.9月4日の軌跡

 私はツアーに行くといつも日記がわりにツアー記録をつけることにしている。これをもとに、帰ってから記録を付け直す。そうすると、阿呆みたいに膨大な量になる。そのうちのごく一部が分水嶺辞典の文になるのだが、1997年の夏のツアーの記録は(体験が異常であったせいもあって)今までよりもさらに膨大な量となってしまった。特に江浪峠、若杉峠を回った9月4日の記録は。ということで、この記録をまるごと載せて”Wha it is to climb 江浪峠と若杉峠”に変えようと思う。
 読んで頂ければわかるが、本来はこんな自転車旅行は邪道なのかも知れない。しかし、自分としては最も”自分のしたかった”旅であった。この記録を読んで筆者を馬鹿にするもよし、反面教師にするもよし。感想をお寄せ頂ければ幸いである。

背景

 「兵庫の峠」という本を入手し、その中で「江浪峠」がかつては車道だったことを知る。記述はこうである。

「江浪峠 千種町の西北部にある西河内字天児屋から緩やかな谷筋を北上して中国山地の山背の鞍部(標高1098m)を越える。因幡(鳥取)側には吉川(鳥取県若桜町)がある。明治22年に幅員6尺(約1.8m)に改修した主要道(現在県道)で、峠の頂上付近など部分的には改修当時の幅員がわずかに残っているが、いまは、荒廃し、谷川化し湿地となった部分が多い。」

 97年の夏にこの峠にひかれてかの地を訪れるも、峠道らしきものさえ発見できなかった。98年夏のツアーはこの雪辱戦という意味合いもある。この峠を含め、周辺の分水嶺を回るべく旅立つ。相棒は97年の夏と同様、腐れ縁のN氏である。若杉峠、戸倉峠、大通峠を回って、9月3日、峰越峠旧道にある東屋に到着。ここをベースキャンプとした。


9月4日

峰越峠・・・江浪峠/鳥取県若桜町・・・沖の山林道→←吉川・・・若杉峠/岡山県西粟倉村→峰越峠/兵庫県千種町:泊

 たったこれだけではあるが、最も長い一日が始まる。

 荷物をいっさいがっさいテントに放り込み、自転車を担いで昨年の峰沿いの道に入る。のっけの急傾斜は記憶のままだ。しかし今回は霧に邪魔されることなく、周囲は明るい日差しに包まれている。休憩を繰り返しながら黙々と進む。昨年見たコース看板は、昨年よりいっそう崩壊が進んでいた。昨年の記録では書き忘れていたが、このあたりはアシュウスギ(芦生杉)という杉の一種とブナが混じって生育している変わったところである。アシュウスギは雪でたわんだ下枝からさらに根が伸びて成長していくという杉である。1時間ほどで見覚えのない道に入る。未体験ゾーンに突入した訳だが、気を抜いてしまって地形図を読んでいなかった。直線コースが終わる三県の県境を気づかぬうちに行きすぎて、若杉峠側に入り込み、結局「←江浪峠 900m 1200m 若杉峠→」という看板でようやく通り過ぎたことに気づいた。その上今いる地点がどこかわからず、それどころか峰のどちらがわが何県なのかも把握できていない。そばで作業をしていた林業のおっちゃんに尋ねてようやくわかる。N氏の指摘した通りであった。恥ずかしいやら情けないやら。AM10:00。  いったん三県分岐とおぼしき地点まで戻る。ピークのはずであったが、そこから東に伸びるはずの尾根が判然としない。道さえもない。また偶然出会った(別の)林業のおっちゃんに尋ねるが、土地のもんではないので詳しいことはわからないとのこと。その人の話とその尾根からの眺めとを総合して、今自分がいる尾が江浪峠へつながると判断。「こっちやと思うで」。そういって先へ担いで行くが、藪こぎの結果、その尾は深い谷底へと落ちていくことが判明しただけであった。峠ではない。ここから南方に、明らかに「つながった尾根」=「江浪峠」がくっきり見えた。これ以降、自分の「思うで」はますます当てにならなくなり、自信は揺らいでいく。AM11:00。

 おっちゃんの「昼までに吉川?!」の「?!」を半ば自信、半ばやけくそで無視し、さらに南の地点のピークから江浪峠を目指す。崩壊した看板のあった地点だった。「下るだけ」という予想は当然のごとく甘かった。中江峠と同じ状況の道の跡を発見できたが、それはすでに笹藪と化して、やがて見失ってしまった。そもそも道ではなかったのかも知れない。あとは重力に従い藪に反発しながら下る。ハンドルに、ペダルに、足にからみつく篠を、時にはへし折り時には叩ききり、大半はその力もなくただ押し分けて進む。藪はどんどん深くなっていくばかりだ。さあて。オレハナニヲシテイルンダロウ。

 はたと気づいたとき、自分の進んでいる方向の空がひどく開けていた。自分は尾根のたわみに向かって進んでいる(つもりである)。その限りにおいてはこれだけ開けているはずはない。冷静に考えて、正確な尾根から外れて谷よりに進んでいることに気づく。危なかった。とりあえずN氏には待って貰い(かわいそうに初めての担ぎでこんな所に連れてこられるとは)、自転車も置いて先に下る。やや進路を南寄りに、といっても篠地を斜めに進むことの困難さは言い表しようもないが、それでも心持ち右の方へ右の方へと下る。足を取られて転んだ。ガサガサッと一回転。泣きそうだ。怒号とやぶれかぶれとともに下る。

 徐々に変化が見られた。篠の間を透かして対面に斜面が見え始めた。木も混じってきた。あっと思った瞬間、篠地を抜けた。その向こうに谷底。一条の筋。峠道だ。

 とそのときは思った。

 最後に茨の茂みを突っ切ると、ぽんと空間に出た。道だ。

 とそのときは思った。

 大声で叫ぶ。「よっしゃ〜〜〜〜〜〜〜〜!」

 実は全然良くない。

 足下は沢状態であった。しかし、幅1mほどの空間が、草に挟まれてさらに伸びていた。それはこの開けた空間の向こう、明らかに峠と思えるたわみに向かっている。そう、この地点は昨年おっちゃんが言っていた「ナルい」地形。空の開け具合から、峠はそう遠くはない・・・あの茂みの向こう程度やろと思っていた。N氏のところに戻り、自転車とともに下る。いくぶんかは気が楽だ。

 さきほどの地点に戻る。小休止のあと、僕は担いで、N氏は徒歩で峠を目指す。念願の江浪峠まであと数十m。気分は高揚する・・・はずだった。

 この時ようやく、自分が歩いているこの場所が、道ではなく、道が沢になったのでもなく、"沢そのもの"であることに気づいたのだった。もちろん以前は道だったのかも知れぬ。しかし、足下にある「歩きやすいように敷かれた木」だと思っていたものは、そうではなく、伐採され細切れにされて「沢に捨てられた木」であったのだ。その証拠に、この木を踏み外そうものならたちまち腿まで踏み抜ける。一部は岩が露出してあからさまな沢となっている。その両側は茨のグリーンベルト。結局道とも言えぬその道を、いらいら行かなければならない。それでもまだ、峠までは余裕があった。

▲江浪峠∧・・・峠は一段高いところにあった。直前に少し開けた地点に出るが、かつての道(車道?)がここでくるっと回り、勾配を緩くしていたようだ。沢はそのまま直進し、土手上のその峠に向かっていく、あたりを探って道を求めたものの、あってなきがごとし、結局その沢を担ぎ上げる。上にあがったところで右手に窪んだところが。これは明らかに道であった。これをたどっていくと、江浪峠である。峠の前後は確かに道幅が残っていた。これはもうセオリーである。南側は特に林が残っているおかげでいくぶんましな道があった。ホハレ峠の北側のごとく、道の真ん中からひょろりと生える木(恐らくオオイタヤメイゲツという名のカエデ科の広葉樹)が印象的であった。峠の空間はしかし、かつての往来を懐古できるような状況ではない。自然の力、木々の生命力はここでも人力を軽く上回り、道を道でなくしてしまっていた。そんな変遷を見守り続けていたお地蔵様。昭和8年の銘のある、比較的新しいものであったが、果たして何年人を見なかったでありましょうや。無事に下れるようお祈りして、北側へと戻る。

 この時点で12:30であった。この沢に出てきた地点より北側がまだ楽な道であることを願いつつ下るが、世の中そんなふうにはできていないらしい。正念場はここからである。やがて墓場につながるはずの。

 目印となっていた沢はあっさりと消えた。藪の中へ。茨のまっただなかを進まざるを得なくなる。足下は湿地である。「兵庫の峠」の一文が頭をよぎる。30年前でもそうなのだから、30年後はもっと酷くて当然だ。歩けば木と木の間に足を埋め、こけそうになる。無理に進めば茨が容赦なく肌を引き、それでもなお進もうとすれば蔦が自転車に絡まる。この湿地帯とナルい地形のため、展望は思いの他利くのであるが、茨と蔦と灌木と不安定な足場は人間を拒み続け、それがまたいらいらさせる。ふと目を上に上げれば、見えるのはただ青い空と山ばかり。昼飯を食うはずの吉川はその一郭すら見えない、幸はやはり山のあなたのなお遠くである。

 時折現れる沢は空間的に開けて見えるものの、入ったら入ったでまた難儀する。左右から覆い被さるようにして生える草木は自転車のかさばることをいやというほど教えてくれる。それは「あんたらアホか」という自然の声のようでもある。右肩に自転車、左手にナタ。もうナタを使う気力もない。途方に暮れて歩くだけだ。時には怒りに身を任せて自転車を放り投げたくなる。叫びだしたくなる。それでも進む。何かを考えているようで実は何も考えてはいない。ちょっとでも楽に進めそうな隙間を目の隅でとらえ、その方向に足を向けるという作業の繰り返し。ただその繰り返しである。

 ようやく、本当にようやく、その谷の"端"に出た。上から見たとき、このナルい地形はそのままえんえんと続くものではなく、上向き凸な谷であることを見ていた。自分らはその変曲点にたどりついたわけである。本来の道―――地形図にある道―――は、自分らが下ってきた谷の左手斜面、すなわち左岸の上部を通っていき、この付近で谷を横断する。実際はそうなのだが、この谷の端に着いた時にはそういう道であるという記憶も地図を取り出して地形把握をする気力もないほどに疲労していた。あくまでもこのばかげた猛進に固執していた。そんな状況の時に、この変曲点で道らしきものを見つけたのだった。少しはましになったな、程度しか考えなかった。もしもこの道に気づかなかったら、それこそ力尽きるまで道なき谷を下り続け、本当に命が死んでいたかも知れない。今思うとここが運命の変曲点でもあったのだ。

 これをたどって右手に回り込む形で進路を取る。半ばトラバース気味。やがて2段目の谷に出た。1段目よりもはるかに開けた杉林の斜面であった。つい最近伐採が行われた、切り株と倒木が無数にある斜面である。切り出しの際に作業の人が使ったのであろう、けものみちのような踏み跡が一本、斜面に細々と続いていた。今までに比べれば舗装路なみにマシな道である。少し安心した。そして、谷底の杉の向こうに、車道らしきものが見えた。気がした。「道だっ!」思わず叫んでしまう。

 そま道をばくばく走り、その谷がよく見下ろせる地点に至ったとき、もう何度目かわからないくらいに何度目かの失望を味わった。道だと思って喜んだそれは、決して道などではなく、例え道だとしてもこの急激な斜面を何百mも下らなければならないような遥か遠くであった。力尽きた。切り株に腰掛けて、煙草に火をつけることしかできない。嫌みったらしい谷を見ながら、どう対処するかを考える。こういう状況での煙草は非常に効く。わかば。相応しいじゃないですか。

 以前、これに似たシチュエーションがあったはずだ。そう、洞峠に2回目のチャレンジをした時だ。道のみの字の一画目さえ見あたらなかったあの時、結局、杉の苗木が植わった山の斜面をガムシャラに直登した。稜線に立って見下ろした谷は、ちょうどこんな感じだった。谷底まで見透かせるほどに開けながら人工物の全くない視界は、言うなれば哀愁の漂う風景。いいなあと思う一方で、帰りにはまたここを下らなくてはならないという当然の予定に慄然とした。だが、伐採された空間とそうでない空間との間に偶然そま道を見つけ、やや楽に下れたではないか。

 ついさっき歩いてきたそま道は、そのまま斜面をトラバースして、100mほど向こうの杉林のほうへ向かっている。もしも林業にセオリーがあるならば、あれは偶然ではなく、この伐採された空間とそうでない空間との境に下る道があるのかも知れない。そう考える。それに、これだけの林を切って材木を運び出したのなら、修羅やトラックを使ったかも知れない。それはこの開けた空間のどこかに、人の住む空間へつながる道があるということではないか。うん、きっとそうだ。少しは気が楽になる。

 一息入れてさきほどのそま道を進むと、すぐに境に到達した。道は境に沿ってまだ延びていたが、予想していたそま道ではなく、それ以上のものが、林の中にあった。古い峠道だった。

 ここでようやく地形図をじっくり見直す。本来の江浪峠道は、さきほどの変曲点から尾根を一つ巻いたあとに、その斜面をジグザグと走って下に延びている。どうやら今現在自分のいる地点はそのジグザグ道のあたりらしいのだ。予期せず本来の道に戻ったことで躍り上がりたい衝動に駆られる。が、今まで何度もダマサレテいるので気が抜けない。とにかくこっちを行くことにする。

 車道の幅は残っているが、廃道度80%である。杉林の中にあるおかげで見失うほど酷くはなっていないが、相当な期間を使われずに過ごしたことが一目瞭然である。枯れ木が倒れ、シダが茂り、時には斜面が大きく崩壊している。乗ったり降りたりを繰り返しながらじわじわ進む。目印があるだけで、それだけで嬉しい。闖入者に驚いたか、目の前を鹿が慌てて駆けていった。

 そのうちに、あることに気づいた。道が通りにくくなっている地点、例えばカーブの先や大きな崩落地点などには、必ずそこを迂回する形の踏み跡がついていた。さほど新しくはないが、明らかに人の通ったあとであった。逆にショートカットされている地点は人が全く入っていないために地形がくっきり残っていたりする。まるで作物か何かのように道一杯にシダが生えそろっていた光景が、ちらと見ただけなのに脳裏に焼き付いている。

 今思えばこの道は、もっと形容詞をつけて賛してもおかしくない雰囲気の道であった。にもかかわらず、自分は一枚しか写真を撮っていない。余りにも疲れ、余りにも空腹であったからだ。それ以上に、武器を持たない人間、一個の生命でしかない人間が、自然に対していかに微力であるかをまざまざと見せつけられたことが、いわばショックであったからだ。もちろん人が自然に勝てるとは平生から思っていなかったが、思うと体験するとでは次元が違う。この道さえ、次のカーブを曲がれば道でなくなるかも知れない。その時、自分は何ができるか。

 やがて幅広の地道に出た。満足に乗れそうな道。しかし、自分はまだ安心できない。いつ登山道になるかも知れず、崖崩れになるかも知れず、ただ不安に淡々とくだる。いつかは沖の山林道にリカバリーできるよう願いつつも、頭の隅ではヤリノコシタコトを一つ一つ数え上げ始めている。

 下り続けながら、ふと右方向にそらした視線が、それを捕らえた。アスファルト。紛れもなくアスファルトの道だった。はっとした。杉を透かして見えていたそれは、すぐに自分らのいる道に近づいてきて、併走し、2つの放物線はついに接する。

「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっっっっ!!!
道じゃああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」

 叫ばずにはいられない。踊らずにはいられない。ついに抜け出した。アスファルトの上に自転車を放り出し、踊り出す2人。今までの鬱屈が一気に噴出する。叫び声がこだまする。「おめでとうううっ!」「オメデトオオオオーーーーー!!」思わず握手を交わしたりなどする。

 時すでにPM2:30であった。

 ここは昨日の沖の山林道である。しかも泊まった沢から1kmも離れていない。吉川まで一気に下り、ふたたび農協のお店で買いだし。食い物を食える、コーヒーが飲めるということがありがたくてしかたがない。買ったバナナが一房600円であってもさほど気にならない・・・・わけないだろ。何でバナナが600円やねん。まあ立派なやつだったから仕方がないが、豪華な昼飯+おやつのつもりでおしいただく。おやっ、これこそが「バナナはおやつに入りません」という言葉の真意であったか。

 もう数ページも費やしてしまったが、この長い一日はまだ終わらない。泊地に戻るためには、さっき越えた中国山地を再び担いで越えなければならない。しかも、日没までに。

 若杉峠に向かう。3km400up。吉川の中心部から南西に伸びる道で山に近づく。集落のはずれにお地蔵様。かつてこの道が主要道であったことを示唆するように、背後が道しるべになっている。「右みまさかみち左やまみち」。やまみち?。我々の採る道は後者である。

 この道を登った先で再び沖の山林道と交差する筈なのであるが。最新の地形図でも沖の山林道は載っていず、予想が立てにくい。下手をすると3km全て担ぎとなる可能性もあった。地形図ではこの先1kmほどで点線道となり、分岐を経て若杉峠である。

▲若杉峠∧・・・が、江浪峠以上の予想外は起こらなかった。ヒレジ谷沿いの舗装を登った先に、地図にない砂防ダムがあって驚かされた以外は。砂防ダムの先には沖の山林道とはまた別な林道があり、この地点に自然歩道の案内看板はある。若杉峠方面への道は芦津越えルート、もう一つの西へ越えるルートは美作越えルートという名でそれぞれ示されている。ここにある看板はその2つのルートの分岐点(括弧書きで沖の山林道とある)まで1.5kmあることを指していた。もう少し舗装林道を登ると、カーブの角に再び看板。ここから担ぎが始まる。PM3:00。

 中国自然歩道だけあって、笹や茨で覆われていたり倒木で塞がれていたり道の真ん中から木が斜めに生えていたりはしない。楽である。とはいうものの、江浪峠で消費した体力は気力に追いつかぬ。ふうふういいながらゆっくり登る。お地蔵様が見え、ガードレールが見え、丸太を渡した急階段を登りきれば沖の山林道着。N氏着が3:30。充分なペースである。沖の山林道のこの地点には、標識と同時に大きな地図看板があるので見落としはしないであろう。ひそかにそれを心配して、吉川からの直の道を選んだのであったが、その点では杞憂に終わった。

 林道に出た地点から東へ数十m行った所に若杉峠への入り口がある。はて、ここだったかさっきの下の林道だったか、登山道の入り口からしばらくは車道幅くらいなのだが、それがヘアピンで逆方向へ行ってしまうあたりから本当の道が分岐しているという箇所があった。迷うといったらここくらいであろう。もしくは後述の峠直前部分である。

 沖の山林道からの道は今までの道に比べて悪くなっている。何故だ。木を渡した階段も草に埋もれて30cmも見えていない。時々道がわからなくなるが、つねに同じ沢に沿って登っていくので間違うことはない。それ以上に、つい最近誰かが通ったのであろう、踏み跡が新しいのが心強い。釈超空の句を思い出す。とにかく、ここは階段状の道を我慢して担ぎ上げるしかない。谷が急に狭くなったあと、それまでとはやや違う雰囲気の地点に出る。谷の上流付近、杉の木立を透かして日が射し込んでくる。滝のような沢を迂回する形で、階段でまっすぐ谷の中腹まで担ぎ上げ、水平に移動しながらすぐにその沢を渡る。なめらかな岩盤を伝ってせせらせらと流れる綺麗な沢だ。手で掬ってがぶがぶ飲んでしまう。ひとときの贅沢。その先、倒木を一つクリアしてすぐに、視界はいともあっさりと開けてしまう。

 盛りの奥に隠された、秘密の空間。そんな感じ。谷はどの斜面も木が伐採されていて明るく、視界は立体角1.5πといった所。良好である。そのせいで登山道が向かう方向がただの岡のように見えるのであるが、実はやはりさっきさんざん苦しめてくれたイラクサとその他雑草が繁る岡である。踏み跡と辿っていくと視界がさらに広がって、さっきまでの道からは予想だにしなかった風景となる。まさに「放り出された」というレトリックがぴったりだ。そこには案内標識があるのだが、とゆーか、これまでもいくつかあったのだったが、全ての看板は、若杉峠までの距離の部分がことごとく削られていた。何故だ。正面に立ちはだかる斜面はきつく、ここをのぼらなんかと思って気が滅入ったが、足下をよく見ると踏み跡はそこから右手にくくくっと曲がっていた。あれっと思うが、草に埋もれているとはいえ、階段もそちらへ続いていた。恐らくこのだだっぴろい斜面が最後の担ぎ上げになるのだろう。

 斜面にもまた茨が。いくつもの棘が自分を引き留めようとするが、もうすでに"抗体"ができてしまった。引っ掻かれるに任せる。一歩一歩を踏みしめながら、斜面をゆるゆる登る。登るにつれて背後が空になりはじめる。振り返れば足下にN氏。

 峠が見えた。そこまでの最後の担ぎは、まるでマラソンのラストスパートのように、頭の中にはこの「しんどさ」が終わることへの渇望しかない。

 深い溜息が一つ。着いた。

 峠には地図看板、解説看板、そしてお地蔵様の鎮座ましますほこら。ああ、ありがたや・・・。ベンチに座り込む。時間はPM4:20。とりあえず帰れそうだ。生きて。

 写真を撮り終わった頃にN氏も到着。来た道を振り返ると、一枚の看板。「これより鳥取県/民家遠し」と、通行止めの看板に書かれていた。もう通行したちゅうに。ここでも充分に視界が開けている。空が大きい。久しぶりの感触だ。はるかに見える山の端のつらなり。そして緑から紫へのグラデーション。うーん、これだけ眺めが広がる峠―――峠からの―――は珍しい。

 ふっと気づくと、峠から西の稜線沿いに登ったところに四阿が見える。あんな所にと笑って教えたN氏の薦めで登る。やつはいつも正しい。

 その四阿からの展望はまさしく展望であった。声にならない声で歓声をあげる。峠とさほど変わらぬ高さと開けた方向にも関わらず、明らかに違う広がりだ。二人とも黙り込んでしまう。

 切り株に腰掛けてじっと空を見上げる。学校と家を往復していただけのあの時期、いつも平地から空を見上げてはそこにある雲の美しさに心奪われ、それを旅への憧れとして、日々の糧として過ごしていた。そして今、自分がいちばん見たかった空がそこにある。

 「(真面目に)あそこまで登ってみたいよなあ・・・」「勝手に登れば。」 ・・・・台無し。

 10分近く浸ってから、再び峠へ戻る。あとは下って、泊地まで車道の登りである。

 若杉峠の南側は岡山県。この周囲はブナの原生林だ。樹木の控えめな標識をひとつひとつ見ながら下る。紅葉が美しいというオオイタヤメイゲツ。峠から展望台への稜線沿いに生えていた。山の湿地に生えるヤマグルミ。沢に育つサワフタギ。さっき伐ってたやつかもしれんな。恐ろしい名前だ。何に使うつもりか、それらをメモしてみたりする。

 真面目な話、ブナの原生林がこんなに美しく心の落ちつくものだとは思っていなかった。じっくりじっくり下る。道は岩だらけであり、乗っていく気はしない。そもそも若杉峠は美作と因幡をつなぐ主要道としての道であり、そのせいかどうかは解らないが、勾配のゆるいこちら側は不完全な石畳道である。

 麓には駐車場。そこから先は再び舗装である。N氏はさきほど野鳥の解説看板にあったウグイスの鳴き声から、なぜか「東京特許許可局局長」となり、それを呟き続けている。すーっと下って、昨年の道と合流。ここから峠の泊地まで300upである。

 足はもう登りに役に立たなくなっていた。数回の立ちこぎさえも持たぬ。ひたすら我慢のインナーロー。N氏は東京特許許可局局長を繰り返すだけだ。かと思えば急に「峠まで勝負だ」と言ってきたりする。俺はもうついて行けんよ。先に行ってくれ。

 峠の直前でようやくエンジンが起動。充実感と疲労感を背負って、帰ってきた。

 晩飯はシチューであった。鶏肉が発行しつつあってちょっと危なかった。沢の水汲みの際に一緒に洗って処理。昨日買っておいた辛いらしいトウガラシやえのき、トマトを放り込んでトマトシチュー。本当に辛かった。N氏に倣ってごはんにぶっかけて食う。月を見ながら。

 食事で落ちついたため、ようやく2人はハイテンションになる。2人の一致した意見。「ものすごい体験やったが、もう二度としたくない」。腹ごなしの散歩ということでラドンの泉まで歩いていく。なんだか嬉しくなって踊ったりする。ラドンの泉では置いてあった水運び用のカートに乗って遊び、そのまま下のスキー場まで行ってしまう。危うく見つかりかける。自販機の前で財布をテントに置いてきたことを知る。が、自販機の下をあさって110円までゲット。しかしコーヒーには10円足りない。アイスを買った。異常気味。帰って焚き火コーヒー。すぐそばでサルが鳴いていた。それを聞いて。自分らはつい数時間前まではあのサルと同じ立場にいたんだと思い、笑ってしまう。

 本当に長い一日であった。


 自分は自転車を担いで峠に登ることが多々ある。乗って行けないことがわかっていながら。ノーマルな人から見れば明らかに邪道なのだが、大学サイクリング部の歴史と、自分の好奇心はどうしても担ぎに傾かせるのである。歩いて登るのさえ難しいのに、そこへ自転車を持ち込めば、当然のことながらしんどい。自分は実はそのしんどさが―――古い意味で―――懐かしいのである。
 なぜ山に登のかという問いに対する「そこに山があるから」という有名な答えは、エベレストの人類初登頂を目前にして命を失った登山家マロリーの言であるが、理系人間の私としてはいささか循環論法的なのが気にかかる。私はこの答えを「それが困難であるから登る」なのではないかと勝手に思っている。このツアーで経験した困難、そしてそれを乗り切った時の達成感は、何物にも変え難いものであった。だからわざと難易度を高く設定するために自転車を担いで山へ(峠へ)登る、といったら、山の雰囲気が好きで登っている山ヤさんには迷惑な話かも知れない。

 もう一つの理由は理論的なもので、今回のツアーのように「峠に登るための自転車旅」が多い私としては、峠と峠をつなごうとするとそこへ舗装の道が入る。限られた時間の中でこの区間を移動するには、自転車のほうが絶対的に有利だ。また、峠は目標でありながら同時に通過点でもある。できるならばピストンではなく、峠の両側の登り降りを経験したい。そんなことを考えると、この日のようなコース取り・担ぎ行になってしまう。もっとも、柳田国男の言う如く「日割りを作ってそれに追われる」ような旅は本当の旅ではないのかも知れないけれど。


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