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こだわりの分水嶺


分水"例"-2.玖珠郡をめぐる分水界・大分県玖珠郡

 私の郷里である玖珠町は、九州の中央分水界を背後に持つ山の中の町である。東西を走る国道210号で大分と福岡をつなぎ、北は宇佐へ、南は小国を経て熊本へ至る国道387号が交差する交通の要衝である。大学に入って峠や道といったものに興味を持つまではさほど気にしなかったが、郡史をひもといて改めて調べてみるとなかなか興味深い立地であり、自分の知らなかった郷土の姿を発掘することができた。特に時代を追って道がどのように変遷していったかを調べると、新旧の関係に思いがけない発見がある。強力な旧道リファレンスの一例として読んで頂ければ幸いである。

大化の開新後・駅名から見る当時の官道

 豊後風土記には当時置かれた駅名が記されている。もちろん駅と駅の間がどのようなルートをとっていたかまでは明らかにすることができないが、ある程度は推定できるだろう(玖珠郡内にあったとされる荒田駅は現在の四日市とする説や野上付近に比定する説もあり、定かではないのは少々致命的ではあるが)。荒田からは豊後国府に向かう道と直入駅を経て日向国府に向かう道とが分かれ、玖珠郡誌では「国府道は野矢滝上を経て立石峠を越え、小田の池に出で、右すれば大野直入方面に通じ、左するものは庄内に出で向の原・加来を経て豊後の国府に通じたものと想像される」としている。その根拠までは記されていないが、何らかの発掘出土品があったのであろう。(カッコ内は現在の地名)

太宰府から豊後国府へ

 石井(五和)―荒田(四日市?)―由布(岳本)―高坂(大分市六坊)

豊後国府から日向国府へ

 高坂(大分市六坊)―丹生(坂ノ市)―三重(市場)―小野(小野市)―

豊後国府から豊前国府へ

 高坂(大分市六坊)―長湯(亀川)―安覆―宇佐(駅舘)―下毛(高瀬)―

太宰府から日向国府へ

 荒田(四日市?)―直入(古市)―小野(小野市)

寛政年間(豊後国史)

 田能村竹田の記した『豊後国史』には、玖珠郡内を通る道として次の7路線が記されている。現在の幹線道である水分峠越えの道はなく、府内に出る道も日出生台経由の道であったことに注目したい。

大分郡府内城路
森営東到帆足郷今宿村五里所経上之市、帆足、岩室、宮下、書曲、松木、辻二里今宿三里是速見郡界、由布郷山並村也自是渉速見郡由布郷距府内城八里余、通計十三里余

 森営から東へ、現在の陸上自衛隊日出生台演習場内にあった今宿を経て由布郷へ。由布郷からは現大分市にあった府内城(現大分市)へ向かう。森藩の参勤交代の道は森営から真東へ進み、大岩扇と小岩扇の間にあった八丁坂を経て今宿に向かうものであった。

速見郡日出城路
森営東到帆足郷今宿村五里、是速見郡界由布郷岩原村也自是距日出城六里余、通計十一里余

 今宿から由布郷岩原村を経て日出城へ。久留島藩の参勤交代道であり、日出城下の豊岡から藩の御座船に乗り、瀬戸内海を渡った。

立石営路
自速見郡界由布郷岩原村距立石営十里余通計十五里余

 立石藩は日出藩北部の8村から分かれた小藩。故に日出城道とほとんど同じルート。

日田郡永山布政所路
森営至南山田郷代太郎村四里所経、十之釣、四日市、戸畑二里、魚返、代太郎二里是日田郡界在田郷藪村也自是距永山布政所三里、通計七里

 森営から十之釣、四日市、戸畑、魚返を経て山田郷代太郎村へ。日田郡界の藪村を経て日田郡永山布政所。なお代太郎越、あるいは代太郎嶺という呼ばれ方

豊前国宇佐宮路
森営東至帆足郷日出生村鞭指山三里所経、森、小場、日出生是豊前国下毛郡界也自是距宇佐宮七里、通計十里

豊前中津城路
森営北至古後郷鳥屋村二里余所経、内匠、鳥屋是豊前国下毛郡界也自是距中津城六里余、通計八里余

  直入郡岡城路
森営南至飯田村郷田野村六里所経森岩室下旦一里余、右田野上一里鹿伏野二里余、是直入郡界朽網郷上津原村也自是岡城九里通計十五里

明治初年・玖珠郡村誌(明治八年編纂)

 明治六年制定の河港道路修筑規則によって、各道路は一等〜三等に分けられた。のちの国道、県道、里道に相当するもので、郡内には両筑往還、豊前往還の2つの二等道路があった。他にも三等道路がいくつか記されているが、これらの路はどれも山道であって、荷物はすべて馬や人の背によって運ばれていたようだ。

二等道路(県道)

両筑往還
森より東、八丁坂・小松ガ台・今宿を経て速見郡川上村塔之本より由布郷を横断し、由布瀬戸の嶮を越え別府に出て大分県庁に通じ、西は十之釣、四日市、戸畑を経て代太郎峠を越え、藪、大石峠、求求里を過ぎ豆田に通ずる

 今宿から湯布院の盆地に下り、現在の別府阿蘇道路(県道11号)が通る狭霧台を経て別府へ抜ける。西は永山布政所路とほぼ同じと思われる。(大石峠は集落の名前。現国道212号にも大石峠集落があり、何らかの関連があるかも知れない)

豊前街道
森より大田村内匠に出て鳥屋を過ぎ、下毛郡山移より鼻ぐり峠を越え、西谷落合、跡田を経て中津に出る

 郡内の路は豊後国史の豊前中津城路と同じ。

三等道路(里道)

豊前支道
四日市より綾垣を過ぎ、山下鳴より古後長田に出て、下毛郡仲摩村金石谷を経て山国に通ずるもの。長田より東に分かれ金吉村に通じるものも

 現在の県道43号。仲摩村は山国町大字仲摩として国道212号沿いにある。

日田路
 森より大田村志津里・長小野を過ぎ、四日市小清原・木牟田・杉塚を経て日田郡東有田村に通じるもの・森より太田・山下・古後に出て長田の西・中野より小迫を経て日田郡東有田村羽田に通じるもの

 両筑街道の代太郎越とは別の路であり、現在の県道48号がこれに相当する。

大分道
 森より上の市・帆足を過ぎ、塚脇に出て古後井路に沿い、長野・大隈を経て右田に出、野上・堀田・野矢より速見郡川西に出て2つに分かれ、一つは庄内谷を過ぎて大分に入る。一つは由布郷を経て鳥井に出て別府より大分に通じるもの

湯山路
 両筑街道のうち戸畑(平川)より矢野・市野村を過ぎ日田郡湯山に通じるもの

肥後路
 森より帆足岩室を過ぎ、松木・恵良・右田に出て転じて粟野・町田・菅原を経て阿蘇郡西里または北里に通ずるもの

明治24年・中津道路の完成

 玖珠郡と他郡をつなぐ車道の建設は早くから郡内有志の希望する所であった。明治19年に村上田長が郡長に就任すると、彼は中津港と玖珠郡とをつなぐ道を作ることが最重要と判断、ちょうどその頃発見された深瀬谷を越えるルートに新道を開削することになった。中津への道はすでに豊前街道、豊前支道があったが、勾配がきつく、車道とするには不利だったからである。郡長は豊前支道を改修すべしとする17町村と対立するが、最終的には鹿倉を越える新道建設に踏み切った。  ほとんど原生林に近い未開の谷を抜ける新道工事は技術的な困難があったばかりでなく、郡内の対立派との軋轢も長く尾を引いた。県からの補助を受けようと県議会に道路費請求議案を出したが、反対派の策略によって否決されてしまう。なおも知人や富家を回って資金集めに奔走し、工事を続けようとする村上を「県議会の決議を無視するもの」と非難し、郡長罷免という最終手段に出た。完成間近の明治23年12月のことであった。  工事は有志の手により継続され、町請負事業から郡の直轄事業となって明治24年秋に完成した。完成後の中津道路は郡内の産業を支え、鉄道耶馬渓線が開業すると大分へ向かう客もこの道を利用して、最も利用頻度の高い道となった。

明治28年〜大正15年・佐賀県道の完成と改修

 速見郡川西(現在の湯布院町川西)から野上村小平谷に出て、中村・粟野・大隈・塚脇・中山田・戸畑・平川・藪を経て日田に向かう車道が明治28年に完成、佐賀県道と呼ばれた(このうち中村から平川までの区間は明治21年に完成済)。川西〜野上村小平谷間は現在の水分峠に相当すると思われるが、当時は川西峠という名前であったようだ。また、代太郎越えの難所は藪へ回る道に改められている。その後、川西峠区間は大正元年から四年までに改修され、大正15年には平川〜日田間が玖珠川に沿う道へ改められた。のちに福岡県道という名前になり、国道210号線となる。


 玖珠郡史を読んでもどうしても解らなかったのだが、上で出て来る川西峠がいつ水分峠と名称を変えたのだろうか。九州横断道路(やまなみハイウェイ)が完成したのは昭和39年で、郡史のこの項では水分峠となっているが、名称を変更したという記述はない。この道路の完成とともに名称変更されたのならば何か書かれているはずなのだが・・・。これ以外では国道210号の指定を受けた時ではないかと推測されるが、これについては記述がなかった。


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