■調査 Experiment


 後醍醐天皇が幕府転覆を画策し挙兵した正中・元弘の変.その罪を受け,隠岐に流されたのは1332年のことである.都から隠岐へどのようなルートを取ったかは正式な記録がないためはっきりとしないが,その候補の一つに挙げられているのが明地峠越えの道だ.周辺には後醍醐天皇にまつわる伝説が多く残っており,例えば峠南の休石集落には隠岐に流される際にここで休んだという「休石」がある.三つ巴の紋が彫られたコンクリート台座の社つきでその存在を主張している.

 

 そこからトンネルに向かって 2kmほどで,旧峠への分岐に到着する.現国道から峠への分岐は「新見美しい森」の看板が目印だ.この「美しい森」は峠の鞍部付近にあるため,そこまでの距離である2.3kmがそのまま峠への距離となる.この分岐の国道側には,昭和51年に新見市が建てた碑も残っている.


 石碑と看板が差し示す道は,集落の間を抜ける生活道とでも表現したくなるような1車線舗装.家々のすき間を200mほど登り進んで,いったん杉に囲まれたと思ったらまたすぐに民家の前へ出る.ここが峠田である.道は田の脇をせり上がっていき,畦を見上げる目線がどんどん下がって来て,畦の高さを越えた途端に,谷一杯に水田が広がる風景が目に飛び込んで来る.


 道はこの田をとりまくようにして登って行くが,谷の最上部で杉林に突入した辺りから地形図と乖離し始める.点線道で谷を直登気味に登るはずのものが,1車線舗装道のまま斜面をつづらで上がっていって,さらに奥へと入って行くのである.「美しい森」への道として新たに整備されたと思われるこの道を,有難く使わせていただこう.
 ただし,「2.3km」という距離は伊達でも誇張でもない.谷奥で右岸に渡ったのち,さらにトラバースして東隣の谷へ.また曲って,高みを元の谷に戻って来る.そんな複雑で長い道のりが待っている.

 ようやく右手上方に牧場の柵らしきものが見えてきて,その次のカーブを曲ると,上方にすらっと伸びる道の先に空が覗く.そこへ至れば「美しい森」への分岐と,「卯の花道」と記された大きな看板に木道.木道? そう,木道.左手の「卯の花道」と示された木道が明地峠への道である.旧道の上に木道を作って,まるごと遊歩道にしているのだ.道の両側には白っぽい石組みがなされており,石そのものは普通の茶色いものだが,地衣類が表面を覆って白く見せているようだ.この統一感のせいで石組みが新しいもののようにも思えるが,いくばくかは崩壊して元国道に転がっている.さらにその上へ緑の地衣類が侵食するように覆いかぶさり,種々の草木も茂ってきて,異様な空間を形成している.


 分岐から50mほどで峠.峠には「高梁川源流」と彫られた巨大な木柱が建っている.やや唐突な気がしないでもなく(もちろん中央分水嶺の峠であることは承知の上で),峠を越えることを目的に来ると,厭が応でも違和感を感じてしまう.しかもこの木道とのダブルパンチだ.
 だが,明地峠の真骨頂はここから.云うまでもなく,木道はここで終わりである.


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