|行政:福岡県香春町〜勝山町 標高:190m
|1/25000地形図:行橋(福岡2号-2) 調査:1996年8月,2004年8月


■背景 Background

 万葉の昔から交通の衝として栄えた福岡県香春町.町の東にあって,筑豊の炭田地帯と周防灘とを結ぶ役割を果たしたのがこの隧道である.他地方では見られない4段帯石の煉瓦ポータルは,県を代表する土木遺構と言って差し支えない.

■調査 Experiment


 香春町中心部を平行して通る2本の国道のうち,右手にあるのが201号.町外れで進路を東に変えれば,もう正面に越える峰が見えている.旧道分岐は仲哀トンネルのすぐ手前がわかりやすいが,もっと下方から登れば隧道建設に合わせて造られたという呉川眼鏡橋あり.明治19年竣工で,隧道と同じ時期(平成12年)に国の登録有形文化財に指定されている.

 民家が集まる新トンネル口付近は殆んど平坦に近い勾配だ.ヘアピンカーブも苦になるものではない.1.5車線幅をのんびり登れば,民家が途切れた所で竹林に.あとはひたすら,林の間を行ったり来たりする羊腸道である.否,整然と繰り返される長スパンのつづら折れは,むしろ人間の小腸に似ている.


 つづら折れの最上段には真新しい「猿田彦大神」の碑.その隣には小さな石神もある.「日本百名峠」のこの峠の項の著者が,佐木隆三の「復讐するは我にあり」を引用して触れている碑である.ちなみに「日本百名峠」では仲哀峠の名前で出てくるが,歴史の頁で触れるように,仲哀隧道の上を越えていたのは七曲峠あるいは石鍋越という峠であった.この隧道よりも北側,障子ヶ岳の南の肩を越えて行く道である.

 クライマックスは唐突だ.この碑を過ぎて左手が開けたと思ったら,そこが仲哀隧道西口坑口.要塞の如き煉瓦積みの坑門に,花崗岩のアーチ.坑門は付近の岩磐に沿っているため左右非対称・不均等になっているのが面白い.隣の解説看板にあるように,煉瓦は長手方向と小口方向を交互に組み合わせたフランス積みになっている(解説看板ではイギリス積みとあるが).まだ色を失っていない赤煉瓦が,迫石の白,周囲の緑に映える.西陽のあたる午後は特にコントラストがくっきりとして美しいように思われた.
(写真は2004年のものだが,報告者が初めて訪れた1996年には入口を塞ぐバリケードがまだなかったはずである.昼食時にここを訪れ,休憩しているうちに雨が降り出し,外を眺めながら缶詰の昼飯を食べた記憶がある)

 隧道内部はコンクリート敷き.香春町の側はコンクリートブロックで覆われている.隧道のちょうど中程から勝山町の側は素掘りで,荒々しい岩肌がトンネル口からの淡い光を受けて光っている.バリケード設置の原因となった「落石」はこの素掘りの部分で起こっているが,さほどcriticalなものではないようだ.隧道の東口では10mほどの区間だけ煉瓦巻きになっており,それが外の煉瓦坑門につながっている.

 東口坑口.構造は西口と全く同じだが,じめじめとして薄暗い雰囲気は全く正反対だ.左手の山からは山水がしぶきをあげて滴っている.加えて,何やらいわくありげな献花.写真の背後にあるバリケード(これも西口と同じ)には,線香やらさい銭箱やらがあったりもする.何かあった模様である.

 東側は西側の鏡像体の如き長スパンのつづら折れ.峠道からは勝山から行橋にかけての平野が一望の許だ.その向こうに周防灘が水蒸気のベールを纏って広がっている.峠道周辺には桜が植えられ,「仲哀公園」として整備されている.道すがらの看板によればボランティアの手によって菜の花が植えられているともあり,春はさぞかし美しいことであろう.
 九州自然歩道がこの道を通ることもあって,東屋やトイレなども設置されている.報告者はこの東屋に一泊したが,寂しい夜景と,隧道に肝だめしに向かうらしき車・バイクの登り降りする姿が印象的であった.あれほど賑やかしければ,成仏できるものもできまいに.


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