■考察 Discussion
そもそも,「仲哀」という名前は東側の地名に由来しており,その起源は大和朝廷の時代にまで遡ることが出来る.第十四代・仲哀天皇が熊襲征伐のために勝山の地に臨時の都を置いたと伝えられ,今でも「京都郡」という郡名が用いられている.峠道のある谷は仲哀谷あるいは仲哀谷平と呼ぶ.資料によっては仲哀峠(七曲峠)を天皇が越えたとするものもあるが,いずれにせよ推測の域を出るものではなさそうだ.
現隧道の上を越えていた峠道は2つ.隧道に近い側にあった七曲峠と,その北にあったという石鍋越である.香春町史によれば奈良時代,町の中心部に宿駅が置かれ,太宰府から豊前国府,あるいは瀬戸内・近畿へ向かう道として,前記2つの峠道が利用されていた可能性が高いという.その頃の田川の中心は我鹿屯倉の置かれていた油須原であったが,豊後国府のあった京都郡祓郷村草場からはこの峠を経由した方が近道となるからだ.
この地に車道建設の計画を起こしたのは,田川郡の初代郡長・熊谷直候.京都郡との協同事業として隧道建設を目論み,福岡県議会に工事費補助の申請を行なっている.この請願「仲哀谷隧道開鑿補助」は明治16年に審議に懸けられ,当初は七曲峠を経由するものだったのを石鍋越えにかえて,開削費用九千八百五十円の1/3を補助することが決議されている.が,その決議の後になって,石鍋越が急峻で改良の見込みが立たないことが判明.かわりに浮上したのが現在の位置に隧道を穿つ案であった.勾配も緩やかにすることができ,費用も増額の必要がない,という見込みで,常設委員会の決議を経て明治17年2月,隧道工事が起工する. そうして出来上がったのが,長さ二百四十五間(約445m),幅二間,高さ十一尺の隧道.竣工は明治23年10月である.総延長のうち,田川郡の管轄が百四十一間,京都郡百四間.隧道に接続する道も新たに造られ,その総延長は三千七百三十三間にもなった.勾配二十五分の一とわざわざ記されているのは,今日からすればいささか滑稽である. 同じ工事を,今度は京都郡の側から見てみよう.大正7年に初版の京都郡誌(昭和29年再版),第四章「土木及交通」には,当時のいきさつや開通に寄せられた漢詩で一章が割かれている.香春町史とは微妙に食い違いがあるが,本文部分を書き下してみる. 「仲哀谷隧道
大正7年といえば完成から約30年が経過している.その頃にはすでに旧式扱いされているというのは,その年月を短いと見るか長いと見るかで印象が変わってくるだろう.旧式扱いの一番の理由は,石炭・石灰の運搬路という,産業と直結した道であったためではないか.大正の終わりには拡幅工事の計画が持ち上がり,5m幅の隧道として昭和4年に生まれ変わった.この拡幅工事の背景には軍部の要請もあったようだが,それについて町史は詳しく語ってくれない.
ここで一つ疑問が生じる.拡幅されたということは、坑口も広げられたはずである.では,現在見られる坑門の煉瓦積みもこの時のものなのではないか.町誌のメモを見返してみても明治の隧道が煉瓦巻き(あるいは煉瓦ポータル)であるとことの裏付けは見付からなかった.扁額の横に記された揮毫者の銘が読めれば確実に竣工年がわかるのだが,手元の写真では小さすぎて判断が付きかねる.
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もっとも確実な証拠は,日本土木学会誌第19巻第7号に載せられている隧道の断面図である.該当頁の付図(4)の掘削順序図には旧坑道が書き込まれていて,これを導坑として上下左右に拡張したことがわかる.このことからも昭和の拡張に合わせて新築されたと見てよいであろう.
■参考文献 References
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