■考察 Discussion

 この隧道がいつ造られたのか,どんな沿革があったのか.それを調べるのがひと苦労であった.経緯を記して考察の代りとする.

 隧道に赴く前に,橋本市の教育委員会に問い合わせていた.道は大阪と隅田八幡宮───国宝の人物画像鏡で有名───を結ぶものだったという.それ以上のことは図書館で聞いてくれ,との事.ならばまず,隅田八幡へ行けば何かがわかるかも知れない.そう思って,隧道を抜けた足で隅田八幡へ向かった.
 この日はちょうどえべっさんの日.忙しそうに立ち振舞う宮司さんを捉まえて話を伺った.が,特にそんな話は聞かないようだった.氏子の人達が献納する形で彫られたのではないかという想像をぶつけてみたが,柱本・細川は柱本の葛城神社の社中にあたるので,もしそうだったとしても「うちでは解らんだろうなあ・・・」と.
 辞して橋本市立図書館に向かう.係の方に尋ねてまず見付かったのは,橋本市郷土資料館が平成11年に発行した小冊子だった.不動山の巨石の紹介を中心とするその本に,周辺地誌の一つとして柱本の手堀り隧道のことが記されていた.それによれば開通は明治23年頃.古老の話として「小山の上に目標となる旗を立て、柱本側と細川側の双方から、火薬を使って発破し、「もっこ」で石を運び出したのであろうという」とある.火薬を使ったのであれば手掘りで無いのでは,とも思ったが,年代が解ったのは収穫だった.「明治23年」「〜のであろう」という文言が気になって,橋本市史も読んでみた.しかしこちらには,交通の章にも近代史にもこの隧道は現れて来ない.
 小冊子を発行した郷土資料館に行けば何かがわかるかも知れないと思い,道を尋ねたところ,有難いことに資料舘の方に電話をつないで下さった.電話口で尋ねた限りでは,やはり資料はこれ位しかないとのことだった.かわりに,南海電鉄がこの隧道を歩くハイキングを計画していたことを教わった.のちに問い合わせてみると,確かに昨年10月にもハイキングを実施したとの事.しかしコースのパンフレット位しか,南海電鉄には残されていなかった.橋本観光協会が案内看板を出していたことからこちらにも当たってみたが,逆に「崩落の危険があるので通行禁止とさせて頂いております」という.何という事だ.

 結局,地元のことは地元に聞くしかない.ぐるりと一回りして柱本に戻ってきた.そうして結局,報告者はYさんという方のお宅に至ることになる.野山遊びのインストラクターを務めているというご主人は,残念ながら留守だった.かわりにこの家の大主であるお爺さんに出会うことができたのだった.
 この方によると,隧道はおもに細川へ向かうために利用されていた.あるいは以前細川の上のほうにあった温泉へ向かうために使っていたという.さすがにいつ造られたかまでは解らなかったが,橋本教育委員会の方が言っていたような,隅田八幡宮との関連はほとんどなかったようだ.「わしゃぁ齢80幾つ,柱本でも一番古いほうだが,そんな話は聞いたこともあらへんなあ」.
 冒頭で述べたように,特に何という名前がある訳ではない.ただトンネルと呼んでいた.小さい頃はよくコウモリを捕りに行ったものだ.数年前までは柱本のあるおばあさんが,毎日このトンネルを越えて細川へ行き来していたというが,その方も先年亡くなってしまった.「小学校に行くのに使ったりせえへんかったの?」という奥さんの問いには,「うんにゃ,小学校はヨソじゃった」.そういった話を伺うことができた.
 Yさん宅を辞したのは,日もすっかり傾いた午後5時過ぎ.今年最初の寒波で小雪が舞う中,南海紀見峠駅で電車の人となる.たかが100年,されど100年.一度埋もれてしまった歴史を掘り起こすのは,容易な作業ではない.

■参考文献 References

  • てくころ文庫vol.7「音の風景100選 不動山の巨石をたずねて」,橋本市郷土資料館,平成11年(1999)

■謝辞 Acknowledgement

 まず第一に,突然お邪魔したにも関わらず丁寧に迎えて下さったYさん一家に感謝.そして橋本市立図書館,南海電鉄広報部,橋本市教育委員会,橋本市観光協会の方々に感謝.


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