|行政:大分県三重町〜宇目町標高: 510m
|1/25000地形図:中津留: (大分7号-4)調査:1996年12月/1997年3月


 報告者はその昔、旗返峠という一つの峠に傾心していた時期がある。1996年の末から翌97年にかけてのことだ。年末の帰省がてらにツアーに出て、四国松山から八幡浜へ抜け、臼杵に渡り、最後の日と決めた12月27日にこの峠と遭遇している。予想だにしなかった状況の峠───隧道───であり、インパクトは大石峠に勝るとも劣らないものであった(奇しくも大石峠の旧隧道を発見したのはこの年の夏である)。そうして翌年春、再度この峠に向かっている。
 この峠に登って以降、報告者は事ある毎にこの峠を紹介してきたような感がある。それが余りにも繁なる故に、また現地で目にしたもの以上の事実を見出せぬままであった故に、活動報告書として取り上げることはためらってきた。最後に訪れてから6年近くが経とうとしている2003年、新たに報告書として提出する気になったのも、この峠以上の旧道をいくつも発見し、新事実も見つかって、そんな執着が薄らいできたせいだろう。<!--もっと正直に云えば、ネタ切れなのである。-->l;

 旗返峠は大分県大野郡三重町と南海部郡宇目町との境にある。北東1.5kmの峰上には西南戦争激戦の地として知られ日本百名峠にも選まれその下に国道326号を通す三国峠があり、旗返峠はその華やかさの影に埋もれている恰好だ。かといって全く歴史がなかった訳ではない。角川地名辞典のこの峠の項によれば、畠返嶺とも呼ばれたこの峠は岡藩の御郡廻り(領内視察)、木浦鉱山の鉱産物輸などに利用されたという。領内視察の加籠に乗る役人も、降りなければこの峠を越えられなかったという難所である。また西南戦争の顛末を記した「征西戦記稿」にも、三国峠と並んでこの峠の事が記されている。

「六月十七日、午前二時中央佐武中尉の部下川野辺軍曹および伍長二名兵卒十四名を選抜し、潜進三国峠の正面第一の賊塁に突入せしめ銃剣を以て其の十二名を殪し尋て第二第三、賊塁の背面を射撃す。彼れ蒼黄塁を棄て走る。是の時他の一中隊も亦左翼の賊塁に迫る。彼れ支る能はず。三国の諸塁悉く陥る。旗返の賊も亦走る。是において三道斉く進み、三国旗返の険を奪ひ、遂に小野市に至る時なほ午前七時なり」

 つまり三国峠だけでなく旗返峠にも薩軍の砦が置かれていたのだ。旗返峠道は三国峠道から派生する形で伸びており、両者を砦して初めて守りを固めることができたのである。

 戦国時代には島津家と大友家がこの峠を通して争った。資料によれば島津軍が峠越えして大友領内に進入し、その帰路を追撃する大友軍との間で戦闘が起こっている。この戦闘で島津軍が旗を巻いて逃げ帰ったことから「旗返峠」という名前がついたとされている(その一方で敗退したのは大友軍という説もある。大分合同新聞昭和52年11月16日付夕刊・『峠』第64回より)。翻って見れば中々に歴史の深い峠なのである。



 そんな旗返峠は現在、県道伏野宇目線(706号)に指定されている。報告者が初めて登った時に持参した地図にも、県道の表示としての黄色が塗られていた。そしてその道は、何気なく嶺を越えていた。三国峠→旗返峠の周回ピストンを念頭に置いていた報告者は、三重駅に荷物を置き、空身に近い装備で国道326号線を登り始めた。PM2:00のことであった。

 陸橋を多用してびしばしと谷越えしてく国道はまだ良かった。三国峠を目指して旧道に入ったあたりから先行きが怪しくなる。車1台がやっとというような狭道に加え、20%はあろうかという急勾配が峠の標高まで登り上げている。だがこの登りは、帰りの余力を───峰越えのはずの旗返峠で帰るから───一切気にせずに登り上げることができた。が、知識の乏しいせいで真の三国峠を見逃してしまい、旧国道だった道をそのまま反対側へ降り着いてしまう。したがって、このピストンのメインは旗返峠に振り替えざるを得ない。
 旗返峠への分岐は、三国トンネルに向かって右手である。国道から分かれてくるっと一回りし、国道陸橋の下を潜って峠へ向かうような形だったように記憶している。ともかくも分岐からしばらくは何でもない舗装の1車線であった。やがてこの道が松の枯葉の絨毯に覆われて赤茶色になってくる頃から嫌な予感が漂い始める。舗装が切れて地道になる。ただの地道ならまだよい。鬱蒼と繁る森の中を、苔蒸した路面の岩や脇に寄せられた倒木に導かれ、果てしなく奥へ奥へと誘われて行く、そんな地道である。登るに従って陰鬱な雰囲気が増して行き、それは「惨」を含む二字熟語のいずれかで形容されそうな光景へと変わっていく。鈍感な報告者の頭の中にようやく「引き返す」という言葉が浮かび始めるころ、例のトンネルが現われた。

 始めは何の事だか解らなかった。見えているのは小さなコンクリートのアーチだ。そのアーチの肉厚は記憶にある何に比べても薄く、強いて言えばスノーシェッドのような薄さである。それが山の斜面に無造作に突き出している。しかしながらその大きさは、常のスノーシェッドの半分以下だ。
 そのアーチまで行き着いて初めて、それが1車線幅のトンネルの入口であり、しかもその内部は全く以って土に埋まっていることを知ったのだった。トンネルがあるという予備知識など一抹たりとも持ち合わせていなかった報告者は、呆然とする頭の隅で、「この土くれを掘って向こうへ行けば良い」などと考えたことを覚えている。無論、そんな生やさしい規模の崩落ではない。そのトンネル跡の前に、倒木に結びつけられた看板が一つ。赤い丸に、赤いたすきがけ。錆びていた。それが「通行止」の看板であることに思い当たるまでにさらに数秒かかった。余りの光景に、写真を撮ることさえ何かアニミスティックな罰が当たるように思えて、シャッターを切ることができなかった。したがって、この時のこの隧道の写真はない。

 もうどうしようもない位に崩壊した隧道を前に、報告者はしばらく考えた。結局、時間がないこともあって、峰まで登って旧峠を越えることにした。当時部内で流行っていた「とりあえずいっとくやろ」という11文字を胸に抱きつつ。

 トンネルに向かって右手の斜面が登り易そうに見えた。自転車を肩に道を外れる。隧道の上に出たがそこは枯木の山。古い峠道はもちろん見つからない。杉林になっている尾のほうへ登りたいのは山々だが、そこまでの傾斜がかなりきつく、自転車共々滑べり落ちてしまうばかりだ。従ってどこまでもこの谷底近くを行くことしかできない。冬枯れの木々が幽霊のように立ち、下生えの草木も枯れ果てた谷の斜面を、一歩一歩踏み締めながら登る。かなりの枯木密度であり途中で振り返ってみた報告者の目にすらどこをどう通ってきたのかわからない。うすら寒くなったのを覚えている。途中で尾根筋に道を変えたような記憶もあるが、ともかく峠道らしきものはついぞ現われることはなかった。


 ようやく峰に辿り着く。峠らしくもなく、越える塹壕状の道もない、単なる峰の一部分といった体の峠である。峠でないとも思えたものの、三重側には───雑草に覆われているが───道の跡が残っているようだった。仰角30°を切った冬の西陽は弱々しい光を投げかけるだけだ。その西陽を追いかけるように、あわただしく峠を後にする。


 はじめは道かどうか判断に迷ったような道も、途中から塹壕状になってきて、正しく道であることを知らせてくれる。が、そこへ柴様の細い切り枝が一杯に詰められてい、全く道の機能を果たしていなかった。あくまでも目印でしかなく、その脇をそれに沿って薮漕ぎしなければならないという理不尽を体験した。その上、車道と合流するのは「崖の上」である。古い峠道を全く無視して車道がつけられたために、峠道ごと削り取られてしまったようなのだ。崖に沿って高度を下げ、ようやく車道に出る。


 何とか向こう側に出られた報告者は安堵した。その一方で、隧道の反対側がどうなっているのかが気になった。ひょっとしたら銘板か何かがあるかも知れない。そう思って車道の上流方向を目指したものの、そこにあった隧道は宇目町側で見たアーチの続きでしかなく、当り前だが崩壊して土砂が詰まっていた。銘板を張るスペースも何もあったものではない。開通を記念する何者かも、やはりない。強いて言えば坑口脇に、この隧道を作る際に使われたと思われるコンクリートブロックの余りが、無造作に転がされているだけであった。

 以上が第一回目の調査であった。行程のいくつかも写真に収めたが、上のとおり余りにも写りが悪く、その上肝心の隧道の写真が撮れていないことに、後になって後悔した。ほとんど黒一色に近いその写真を見、図書館の地形図で道を再確認しているうちに、自分が越えた峰が本当に旗返峠だったのかもおぼつかなくなってしまう。そんなこんなで、翌年春に再度この峠を訪れるのである。愚かという以外の何者でもない。


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