|行政:兵庫県川辺郡猪名川町標高:140m
|1/25000地形図:妙見山(京都及大阪11号‐1)調査:2005年8月


■背景 Background

 V字形に二股に分かれた一庫ダム.水没二隧道はいずれもその左の又にあって,上流側に当たるのが龍化隧道である.一庫ダムの平常満水位(145m)よりわずかに下にあるため,洪水対策として水位が下げられる6月〜9月の4カ月間だけ姿を現す.
 かつては大阪平野と丹波をつなぐ主要道,ダム工事が始まり昭和52(1977)年10月に迂回路が供用される直前には,一般国道173号の隧道として活躍していた.大正5(1916)年竣工であるから,約60年間,道の隧道として機能したことになる.

■調査 Experiment

 渇水期の国道173号を走ると,普段はダムの湖面下にある谷の深さ,蛇行の激しさに改めて驚かされる.大阪の平野からここまで登ってくれば,そしてさらに上流に広がる豊能・能勢ののどかな山里風景を知っていれば尚更だ.地質の具合なのだろうか,ちょうどここら一帯だけが峡谷のようになっていて,交通の難所であっただろうことは容易に想像がつく.

 このうねる谷を満喫するには,やはり現国道より湖岸の道路を通るほうがいい.大阪側からアプローチするなら,一庫ダムまで登って右折(県道野間出野一庫線)し,ダム堰堤から左に折れれば湖面沿いの道に入ることができる.龍化隧道に会いに行くだけなら,もう少し国道を進んで,新円山トンネルの手前で右に折れたほうが早い.
 寂れた展望台を過ぎるとすぐに「望郷の碑」.これはダムの完成によって沈んだ集落を偲ぶものだ.無論この碑は国の施策で設けられたものだが,何もないよりましであろうと思う.このダムの恩恵を受けている報告者としてはないがしろにすることの出来ぬ碑である.

 ダムに沈んだ集落の一つ,国崎集落は,この碑から北東方向に伸びる谷にあった.林業と一庫炭と呼ばれた炭焼きが主な産業であったという.北東の谷と北西の大路次川とが出会う辺り,ちょうどダムの最底部には,出合という集落があり出合橋があった.ちなみにダム湖東岸の谷の一つにはかつての集落の産土神であったろう神社が残っている.石の鳥居や壊れかけた石灯篭などもあったように記憶しているが,今はどうなっているだろうか.

 ダム堰堤に端を発する道は,通称さくら橋(知明1号橋・ランガー桁)でV字の中央に渡る.龍化隧道へはここで左折である.ここで右折すると無料の駐車場があり,車を置いて付近を散策したい方にお勧めしたい.但し夕方5時くらいで閉まってしまうはずなので注意されたし.

 

 

 

 

 右に左に何度も揺さぶられつつ,断崖の道を北上する.左手下方には知明湖の緑色を見下ろす.意外に森も深くてそう悪くない雰囲気の道である.今回の調査のメインディッシュたる円山隧道が先に見えてくるが,写真は後のお楽しみに取っておこう.

 

 

 

 

 

 

 

 龍化隧道もこの対岸の道から見下ろすことができる.真正面を向いた大きな素掘り隧道はなかなかの迫力である.坑口を見ると天井のわずか上まで泥をかぶっているのがわかる.平常水位ではぴったり隠れてしまうのだ.

 大路次川の右岸に渡れば,足元の川べりへ下る階段がいくつもある.隧道のある付近もまた遊歩道として整備されているようである.但しそこへ至るためには,もう100mほど北に進んで,遊歩道用の吊橋を渡らなければならない.


 龍化隧道の北側坑口.でかい.高さは5m近くあるだろうか(右端の自転車に注).調査時には天井にスズメバチの巣があったのだが,それがあまりにも離れて見えて,存在が気にならなかった程の高さである.幅もそれなりにあって,さすがはかつての国道隧道,といった貫禄がある.素堀り隧道でこれだけの幅・高さがあるのは珍しいかも知れぬ.

 隧道内は下流側に軽く傾斜している.両脇には排水用の溝とコンクリート蓋も見える.竣工は大正時代だが,意外と改修を受けているようである.抜けてすぐ道が右に折れているため,隧道内からは対岸の崖しか見えない.この道は下流にあった円山隧道へと向かっていく(ただし現在ある道は遊歩道用に整備されたもので,直接円山隧道につながるものではない).

龍化隧道と開通式典(能勢町史第三巻より引用)

 

 南側坑口の向かって右手には石組+コンクリートの土台あり.これは竣工直後に記念碑が建てられた場所のようである.左写真が竣工当時の龍化隧道,右がほぼ同じ角度で南側坑口を写したもの.左写真の人の列の背後にあるオベリスクが開通記念碑である.この位置と人の高さ,写真左端に見えている隧道坑口の高さを見比べてみると,当時よりも拡高されていることがわかる(写真は報告者が持参した資料を見つめる絹路氏).
 ダムの完成に伴って,記念碑は水没しない場所に移設された.龍化隧道の真上にある新龍化トンネルの南口である.碑の撰文は藤沢南岳.明治から大正にかけて大阪で活躍した儒学者であり,実は「通天閣」の名付け親でもあったりする人物である.

 最後に,円山隧道を調査し終えた一行が南側坑口付近でカレーを作っている図.これはnoa氏が撮影した一枚也.まさかこの隧道も,こんな怪しげな一行が訪れようとは思ってもいなかっただろう.

■考察 Discussion

 現在は猪名川町の町域にある龍化隧道だが,開鑿にはより上流の能勢町の出身人物が関与している.開通記念碑は彼のことや隧道開鑿のいきさつを刻むだけでなく,大路次川に沿って作られていた明治の道───これも地元の人々が作り,後に兵庫県に寄付されて丹州街道と命名された───の歴史も教えてくれる.丁度良いのでこの碑文を引用することで考察に代えたい.

「龍化隧道記念碑 藤沢南岳書
隧道ノ長サ壱百二十六尺高幅各拾弐尺、大阪ノ人植村治良兵衛氏ノ私財ヲ以テ開鑿セルモノナリ、昔時旧能勢郡各村ノ民池田大阪ニ往来スル者ハ層巒重嶺ヲ攀登シテ崎嶇険難其労苦甚シカリシガ、明治十八九年ノ交村老相謀リ各其資ヲ義捐シ尠カラサル費ヲ忍ビテ新道ヲ開キ、大路次川ニ沿テ直ニ出合橋ニ至ラシム、而シテ後挙ゲテ之ヲ兵庫県ニ寄附ス、之ヲ丹州街道トナス、民其便ニ頼テ以テ今ニ至レリ、是レ既ニ義挙トナスベシ、然レドモ山渓流急ニ雨潦一朝ニシテ至レバ崖ヲ洗ヒ石ヲ崩シ道路通シ難キ事数ナリ、而シテ此地其最モ険ナルモノナリ、巨巌渓ヲ圧シ渓又激シテ竜化ノ瀑トナル、故ニ行人往々顛蹶シテ生命ヲ殞スモノアルニ至ル、植村氏モト枳根荘村字森上塩田氏ノ出ナリ、幼ニシテ大阪ニ赴キ商ヲ業トシ遂ニ鉅万ノ富ヲ成シ現ニ市会議員ノ職ニアリ、其歳時帰テ家ヲ省ミ此地ヲ過グル毎ニ地ノ険ニシテ人ノ困ムヲ憫フルコト切ナリキ、去年
今上天皇即位ノ大礼ヲ行ハセラルゝヤ自ラ謂ラク聖世ノ恩ニ報インニハ人ノ害ヲ除クニ如クハナシト、乃チ意ヲ決シテコノ隧道ヲ鑿ツ、然ルニ岩石堅硬ニシテ功ヲ進ムル容易ナラス、加之欧州戦乱ノ漸ク酣ナル爆薬工具ノ如キ其価初メニ什倍ス、而モ氏ノ志初メニ変ゼズ、今年冬遂ニ成ル、工ヲ用フル実ニ八千人費万余金ニ達ス、亦義挙ト云フベキナリ、村民之ヲ徳トシ枳根荘西郷両村長ヲシテ石ニ勒シ後ニ伝エンコトヲ請ハシム、嗚呼氏業成ツテ其富ヲ私セズ能ク郷民ヲ利シ以テ 聖明好生ノ徳ニ副フ、本ニ報イ国ニ酬ユルノ諠ヲ得タリト云フベキナリ、乃チ為ニ之ヲ記ス 大正五年十二月 浪華 藤沢南岳撰

大正六年十月十五日 大阪府下豊能郡枳根荘村西郷村建設之
工事担任者 山崎卯之助
中川宇三郎」

 巨巌渓を圧し,渓又激して竜化の瀑となる.畳み掛けるような韻が何とも言えない.如何にも明治大正の知識人といった感が滲み出していて,報告者は好きだ.

■参考文献 References

  • 能勢町史第三巻,能勢町史編簒委員会,昭和60年(1985)

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一庫ダムの水没隧道

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