行政:兵庫県猪名川町標高:130m
1/25000地形図:妙見山(京都及大阪11号‐1)調査:2005年8月


■背景 Background

 龍化隧道は先にあきら氏の調査もあり,また歴史的側面もよく知られていて,まだ幸せなほうかと思う.しかし,その下流にある円山隧道は,全く謎に包まれたまま沈んでいる,哀れな隧道である.

 先ず以て,それがいつ作られたのかが解らない.川西市史,猪名川町史,能勢町史,いずれの史誌にも現れず,近畿地方整備局や兵庫県の道路課にもお尋ねしたが,詳細は不明のままである.ダム建設に伴って水没した国崎集落の民俗調査を行なったという川西市教育委員会の方もご存知ではなかった.しかも嫌らしいことに,その「由来」は確かに存在していたのである.というのも,この隧道の扁額だけが取り外され,現国道脇に移設されているのだが,そこには解説看板だったはずの看板が立っているのだ.そうしてそれは,錆び切ってしまっていて,全く用をなしていない.


 円山隧道が日の目を見るためには,龍龍化道よりさらに厳しい条件が科せられる.夏の制限水位よりさらに低い所にあるため,夏になったうえで渇水が進まなければならないのだ.年によってはその姿を拝むことすらままならない.円山隧道はそんな隧道なのである.

 幸いなこと?に2005年の夏は渇水気味であった.6月末頃から隧道が姿を現し,あきら氏の「R173-NET」の掲示板上で円山隧道スレが賑った.水面の進退に多くの人々が一喜一憂したが,完全露出まであと2〜3mというところで下げ止まり,その状態で1ヶ月近く浮沈を繰り返したのだった.かなり罪作りな隧道である.
 そうして,業を煮やした報告者.8月末の日曜日,ORJの製作も放置して,調査を名乗り出る.武器は佐和山隧道でも活躍した特殊装備・ゴムボートである.

■調査 Experiment

 まずは円山隧道の位置関係から.地図は後ほど考察で取り上げることにして,現地写真を中心に報告したい.

 上写真は大路次川の左岸から見下ろした円山隧道.下はさらに上流側から見たそれである.隧道の穿たれた小尾根が川に対して直角に張り出し,川を遮らんばかりになっているのがわかる.それほど大きなものではないが,いかにも邪魔そうな山の裾である.
 ちなみに龍化隧道の付近はクランクに近い川筋で,そのクランクの角の一つをショートカットするような形で隧道が穿たれていた.なぜ先に円山隧道が穿たれなかったのだろう? と思わないでもないが,龍化隧道近辺は岩崖がそそり立っていて,川沿いの道をつけることさえ困難であったように見受けられる.むしろ龍化を掘ったことで「そのついでに」円山も作られた,という感じがする.


 龍化を抜けた道はその先で大きく崩れている.いま現在道の体をしているのは,後年になって整備された遊歩道みたようなものらしく,新しめの柵がつけられている(考えてみればこの道も夏の数ヶ月しか機能しない訳で、なかなか剛気な遊歩道である).この道を辿って行けば円山隧道に近付くことはできるが,円山隧道の坑道につながっているものではないため,そのうちどこかで左手の柵を跨がねばならぬ.

 この日の水位(132m)では龍化隧道から100mほど下流から湖面が始まっていた.しかし付近は瀬が浅くて、ここからボートで侵攻し始めるのは不可.遊歩道をボートを担いで向かう.湖面に降りられたのは円山隧道の直前で,ぬかるみを気にしなければそのままポータルに近付いてタッチできそうなほどに水位は低かった.間近で見られるのは有り難いが,ボートを持ち込んだ意義が半減したかも知れぬ.ううむ.

 …気を取り直して観察.ポータルは石積みであり,それをコンクリートでつないでいる.つないでいるというよりも,塗り固めた,といった方が適当かも知れない.角張った山石を積んで,出来た隙間を所構わずコンクリートで埋めている.そんな感じである.お世辞にも綺麗な仕上げとは言えない.

 扁額が抜き取られていることはすでに知っていたが,間近で見るとさらに痛々しい.これならいっそのこと破壊し尽くしてしまったほうが良いのでは,などとも思う.
笠石に相当する部分はコンクリートで,内部もまたコンクリートで巻かれている.幅の狭い上木(アーチの「型」である拱架のコンクリに面する部材)で打設したらしく,細く長く歪んだ筋が幾重にもついているのが見える.千早洞のコンクリート巻きを思い出した.(あちらは大正6年頃の竣工だが,コンクリート巻きだけは戦前戦後のことだと聞いている.この隧道もその頃のものかも知れないと思ったものの,微妙に違う点あり.これも考察にて)

 一つ面白く思ったのは,ポータルのアーチもまたコンクリート打設であることだ.ポータルが石ならこの部分も石で作られるのが普通なところなのだが.あるいはこのコンクリアーチの裏に石組が隠れているのかも知れぬ.というより,なければアーチにならない筈で,しかも扁額部分は抜け落ち強度が落ちている訳だし・・・.

 それではボートで侵入してみよう.第一陣は絹路氏と報告者.続いてnoa氏・あきら氏組.みなボート漕ぎに慣れていないせいもあって,あちこちぶつけたり一回転したりして何とも喧しい探検隊となった.釣り人の人に呆れられたに違いないが,面白い事は面白いのであって,楽しんだほうが勝ちなのだ.ふはは.



 隧道はとても短い.入ってしまえばもう向こうに出口が大きく見えている.緑色に濁った湖面には対岸の風景が移り込むこともなく、ただ蒼く白く波打っているだけだ.内部はコンクリート巻きというばかりで,これといった特徴はないように思われた.だが帰ってよく考えてみると、坑道アーチの天井まで拱架跡が残っていることは注意点かも知れぬ.即ち全面がコンクリート打設されているのである.これについては考察で述べたい.

 コンクリートは目が荒くて,大きめの砂利が多数含まれている.これも千早洞のコンクリート巻きにそっくりだ(必ずしも千早洞だけを対比対象にせずともいいとは思うが…).こんな水没隧道なのに内壁に落書きがなされているのを見て笑ってしまったが,この日の晩,ヨッキれん氏が東北で全く同じ事をしていたことを知り,苦笑した.

 

 

 

 

 

 隧道ではよく風が吹き抜けるものだが,この円山隧道も───水没しているとはいえ───風が吹く.しかもボートに乗っているものだから,一時たりとも同じ場所に留まることができず,帰りなどは風に押し戻されるようにして北側に戻ったのだった.今にして思えば,風の向きが逆だったら大変な思いをしていただろう.

 阿呆な報告者は最初の"航海"でカメラを持って行き忘れた.探索の最後に単身で撮影に向かう.湖底にオールを突き刺してボートを壁に押しつけ,何とか撮影した右写真がORJ第3号の表紙を飾ることとなった.
 この時オールは2m近く沈み込み,泥の層もかなり深いようであった.この日のダム水位は132mであったから,120m台に割り込んだうえでしばらく露出し,路面が乾燥しなければ,徒歩で立ち入ることも難しいようである.

 この後龍化隧道で,隧道調査よりも長い時間をかけてカレーを作り,食い,解散した.一体どちらがメインなのかと問い詰められそうな調査であったが,事故もなく終了したので,まあよしとしよう.


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一庫ダムの水没隧道

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