|行政:岐阜県坂内村〜藤橋村標高:・814m
|1/25000地形図:美濃広瀬(岐阜11号‐1)調査:2001年9月他


■背景 Background

 ハレ峠は岐阜県西北部、美濃の山中にある峠である。標高は814m。揖斐川上流の鄙びた山村、坂内村と藤橋村をつなぐ地形図点線道の峠。この峠に注目し、越えようとしたOUCC部員は14人以上。銀輪に登場する回数は4回以上3冊にも及ぶ。しかしながらこれまでにこの峠を越えられた部員は、いや、峠に立てた部員さえ、皆無であった。

 なぜにこの峠はそこまでサイクリストを引きつけ───かつ拒んだ───のか。前者の理由にその名前の面白さがある。方言からも標準語からも遊離したような、一種独特の語感と響き。初めてこの峠に注目したS57入学の升谷さんも、そんな名前に惹かれてのことであった。もう一つはその峠道の独特さであろう。図書館蔵の古い地形図では、峠の北側、門入までの道は、山腹をゆるゆるくねくねとトラバースする「実線道」となっている。こうしてみると何でもないように思われそうだが、年季の入った人ならばすぐにピンと来るはずである。北摂で言えば仏坂峠、猪の倉峠のような渋い峠道が、延々6kmにも渡って続いているということである。そして、ロケーションは「美濃の山中」。言わずもがな、であろう。

 しかし実際は、冒頭に書いたように誰も越えられなかった。ホハレ峠が轍を拒み続けた理由、それはこのあたり一帯の地質である。付近には八草峠、高倉峠、温見峠といった「工事中通行止め」で有名な峠が多い。もろく細かな岩質の山肌が至る所で崩れ、細かい瓦礫となって道をふさいでしまうのである。

『・・・ホハレ峠を越えて徳山へ抜けようとしたが失敗して(峠の頂上付近が徹底的に崩れ、歩いてでも通れない。全く見捨てられた峠である。)仕方なく久瀬(100m)という所に泊まった。』(銀輪別冊『道』・P59:升谷氏)
『ここは部分的にコンクリート舗装されている他は地道で、・・・(中略)・・・登山道となり斜面崩壊に出くわした。ホハレ峠は通行不能、と納得して来た道を戻った。』(銀鱗'92・P62:夏合宿4班報告書・重田氏)
『藤橋村役場に電話すると、√417からホハレ峠へ行く道は誰も行ったことがないからわからないが、廃道状態だろうということだ。』(同・P66:夏合宿5班報告者・林氏)

 加えてもう一つの理由。時代の流れという抗うことのできない力の存在。ホハレ峠の北側は、現在は藤橋村であるが、昭和62年までは徳山村という独立した村であった。徳山を中心とする面積250km2あまりの山地。江戸時代には旗本徳山領として発展した山間の村であったが、縄文晩期の土器や住居跡も見つかっている、はるか以前からの人住の地であった。その村は、昭和32年に浮上した日本最大のダム「徳山ダム」建設計画により、峠麓の集落を除いて全てが水没する運命を辿ることになっている。これに伴い村域は藤橋村に吸収され、徳山村は姿を消した。同時に、生活を営む人々も。

『しかし、徳山には人の気配が全くなかった。ダム建設のため、この集落の人はみんな出ていってしまったということだ。これは唯一人残っていた揖斐川上流漁業組合の人に聞いた話で、この人にラーメンと米を売ってもらった。この日は中学校の体育館で眠った。』(同)

 最新の地形図(平成7年部分修正・美濃徳山)と図書館の地形図を見比べてみよう。昭和50年修正版では門入・戸入などにも人家が集まり、集落を形成している。しかし、平成7年版ではそのほとんどが消失し、集落名さえ消えてしまっているのである。僅かに残った徳山、櫨ヶ原の集落も、いずれはダムの底に眠る存在になる。

 だが、こういうと余りにも傍観主義的であるけれども、こうした集落消滅の例は全国にいくらもある。それでも僕がこの峠と集落に惹かれるのは、ある想像があるからであった。先に「峠麓の集落以外は全て水没」と書いた。門入などの集落は谷の最上部にあるため水没を逃れる算段になるのだが、ということは当然ながらそこまでの道も水没してしまうはずだ。もしダムが完成したならば、人の消えた集落が、それも誰の手にも届かない集落が、この谷の奥深くに残されるはずである。

 14人の自転車部員をして通行不能を証明せしめたホハレ峠を越えたならば、しかし、そこへ行ける。


→Next

 

総覧へ戻る