結論から言えば、2000年秋のこの文章を書いている時点においては、その考えは取り越し苦労でありまた妄想であったといえる。徳山ダムの建設は幸か不幸か遅れに遅れ、2000年5月に工事に着工したばかりである。徳山中心部の本郷から戸入、門入への道は今だ健在であり、その門入には現在も人が居続けている。それは実際に峠を越えて門入に至った自分自身の目で確認した。だが無論、それでこの峠への興味が尽きたという訳ではない。4年という期間の間にこの一つの峠を注目し続けていたお蔭で、この峠の特異性を知り、興味も知識も深まる一方だ。ありがちなレトリックを使えば「ホハレ峠に憑かれた」と言ったところになる。 ホハレ峠の面白さの一つに、その峠の「場所」がもたらす民俗学的意義にある。ホハレ峠は近江・木ノ本から八草峠を経たすぐそばにある。近江商人が運んだ物資とともにその文化も頻繁にこの峠を越えた。川沿いに道を作ることが困難だった昔は、川下である本郷よりもこのホハレ峠を越えて近江文化と接していた。言うまでもなく坂内村・川上とは切り離せない存在であり、明治の初めにはこの2つの集落が─たった一本の道で繋がれているに過ぎないのに─「川上村」という一つの村であった。このあたりは美濃文化よりも近江文化の色合いが濃く、今は見られなくなったが、藁葺き屋根の構造一つを取ってみてもやはり近江の影響を多分に受けている。 ホハレ峠について書かれた本の一つに、沢釣りをこよなく愛した山本素石という人物の著書「渓流物語」がある。イワナを追ってこの徳山を行き来し、ホハレ峠とかの地に住む人びととの交流を描いたエッセイであるが、その中で彼は面白い考察ををしている。徳山の中心部である本郷から西谷を入って行けば、8kmほどで戸入があり、そしてその奥に門入がある。「戸」をくぐって次に「門」があるというのは変じゃないか、というものである。なるほど確かに。そういう疑問を漏らしたところ、即座に先の関係を教えられたという。すなわち昔は川上側が文化と物資の入り口であり、そう見れば「門」があって「戸」があるのだ、と。
そうして川上の人びとにとっては、古いほうのホハレ峠が今でも「ホハレ峠」である。私が峠について尋ねた方はみな「あああそこね」が第一声であり、しかしながら自分がその関係を知らなかった当時、そこから先の話の筋妻が合わなくて難儀したのを覚えている。ほれ、お地蔵様がおったやろう。その向うに鈴竹を刈りに行ってのう…。
前置きはこれくらいにして、現地の様子を書かなければ。とはいっても、書いたところで、誰の何の役にも立たぬ筈であるが…。 |
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