鐘ヶ坂隧道(篠山側〜隧道)


■調査 Experiment

 この旧道への,篠山側の登り口は至ってわかりやすい.鐘ヶ坂トンネルのすぐ手前,右手の「Mobil」の看板前にある地道が旧道入り口である.年によっては全くの薄の海であったり綺麗に刈り取られていたりして廃れ具合いはまちまちだ.例えば報告者が初めて訪れた96年には薄の海であったが,翌年再度足を運んだ際には何故かきれいに刈り取られていた.新世紀になった2001年には再び草に埋もれ(左下写真・かろうじて残っていた空間を写す),この報告書を再編している2004年現在ではまたきれいに整備されている(右下写真).ただしこの年の10月に襲った台風23号の大雨の影響で,岩磐までえぐれた沢跡が長々とついている.基本的に南に開けた谷に沿う道なので,いったん使われなくなるとたちまち草に覆われてしまうようだ.

 国道との分岐から300mほど進めば,クッと左の谷に入り込んで,すぐ正面に鐘ヶ坂隧道.現れる,という表現がしっくりくるような,そんなロケーションでありシチュエーションである.

 

 縦長のアーチが美しい隧道は,寸分の狂いもなく真っ直ぐに穿たれており,朽ちた金網を透かして反対側の坑口が小さく光っている.煉瓦はひどく苔むしていて石積みと見紛うようだが,よく見れば表面が剥離して凹んでいるものも多く,そのお陰ではっきりと煉瓦であることがわかる.またアーチはアーチとして独立しているのではなく,ピラスターと一体化している─付柱の石の一つがL字型になっており,それが迫受石を兼ねている─構造も面白い.隧道付近の地形の制限が厳しくて充分な幅が確保できなかったのだろう.


 

 ちなみに,上写真は2004年のものである.以前は全く忘れられた廃虚のような存在であった.経年変化を追ってみると以下のようになる.


<1996年>

<2001年>

<2004年>

 

 

 坑口に掲げられた扁額は有栖川宮熾仁親王筆の『事成自同』,その下にさりげなく鶴の彫刻が施されているのも,隧道建設が大事業であった明治という時代を感じさせていい.一方,隧道向かって右手の斜面には,隧道建設費の寄付者名を記した石版が埋め込まれている.百圓を筆頭に高額寄付者が多く名を連ねていて,明治十六年完成という情報もここから読み取ることができる.

 それでは,謎多き隧道内部へ.


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