鐘ヶ坂隧道(柏原側)


 比較的なだらかな谷だった篠山側に比べ,柏原側は切り立った山の斜面に坑口がある.当然ながらそこへ至るための峠道もまた斜面を大きく折り返しながら登っている.国道トンネルの直前から分岐し旧道に入ることも可能だが,ここはぜひ,トンネル口より下に残るつづら折れから体験したい.緩やかな勾配と小さな曲率半径のカーブでくるくると登り下りするこの区間は,沿道に桜の樹が植えられ「鐘ヶ坂公園」として整備されている.明治期の典型的な馬車道の勾配であり,自転車には特におすすめである.

 現トンネルより上は地道.先述したように大きな折り返しを経て隧道へ向かう.こちら側もよく整備がなされて走りやすくなっているが,一か所だけ,これもやはり台風23号の影響で道が大きく崩落していたところがある.谷側に護岸がなされているものの,その底の部分が崩壊して抜け落ちており,ちょうど砂時計と同じ原理で木がすべり落ちていた.地盤固めのためと思われる木の柱が宙に浮いていたのも印象的.道を綺麗にすればしたで沢ができやすくなり崩壊もする.旧道を保存するという事業は難しいものである.

 

 

 

 

 
 折り返しの上段には,かつて展望台であった鉄骨組みが錆びている.以前は蔦に巻かれて展望どころではなかったのだが,ここも合わせて再利用を検討しているとのこと.麓に向けてつけられた看板も主張の方向を取り戻している.

 隧道前はちょっとした広場.こちら側の隧道は向かって右手の崖から大量の土砂が落ちており,半分がた埋まっている.2001年に訪れた時までは,隧道ポータルも草にまみれて煉瓦の一片も見えなかった(左下写真)が,それもまた2004年には白日の下である(右下写真).

 崩壊していると思っていたポータルは,ぶ厚いコンクリートによって固められていたのだった.その上から三條實美の「鑿山化居」の一筆が覗いている.東口の力強い筆致に比べ,端正に過ぎてまるで習字の手本のようだ.その下にあったかも知れない彫刻は,コンクリートに隠されて確認する機会を永久に奪われてしまっている.
 隧道内に滴っていた水はポータルの真上にある谷から供給されている.傾斜がきつくほとんど崖に近い谷だが,なかなか水量が多いらしく,この日も扁額を濡らして水がほとばしっていた.西口を塞ぐ土砂もここから落ちて来たもののようだ.この沢の水対策は全くされていない訳ではなく,隧道の上部から左手にかけてスロープ状の誘水路が作られていたようだが,これも土で埋まってしまっており,ほとんど用をなしていない.

 隧道を覗き込む.ポータルのコンクリート補修の厚さは30〜50cmくらい.ポータル石組みの真後ろにはアーチを一周する亀裂と,それを補修したコンクリート跡が見える.幅は10cm以上あるだろうか.確かにこれでは,ポータルが倒れて来ないような補修が必要だ.


 こちらの側は隧道よりも,隧道開通当時の様子を雄弁に語る「鐘坂隧道碑」の石碑が重要だ.これによれば隧道建設へ着手したのが明治13(1880)年12月.3年後の同16年に竣工し,10月には当時農商務省の大臣だった西郷従道も出席して開通式が行なわれた.碑に刻まれた隧道長は八百八十二尺,高さ十一尺,幅十五尺.高さより幅のほうが広いというのは現状の細長い姿に反しているが,これにはちゃんとした訳がある.これも考察で述べたい.開通に合わせて拡張された峠道には桜100本が植えられたとあり,鐘ヶ坂公園の基がこの時に始まっていることも,この石碑は教えてくれる.
 石碑自体の銘は大正四年三月であり,設碑のねらいも完成後30余年を経て当初の役割を終えたこの隧道を回顧するためであったようだ.



 柏原側にはこの記念碑の他,寄附金提供者の名前を記した碑,地蔵様と石碑などがある.角川地名大辞典・兵庫県のこの峠の項によれば,中央の地蔵菩薩は江戸時代の宝暦四(1758)年建立,頭巾を被ったような姿の「法道仙人像」は文政十三(1830)年の銘があるもの.前者は但馬国生野銀山の関係者が施主となり,道中の安全を祈願して建てられている.当時生野で生産された銀がこの峠を越えていたことを静かに物語っている.左端は同六年の修道落成供養塔.安藤広重も描いた「丹波金坂」の修繕を記念するものだ.なお,これらの造作物は以前の峠道にあったものを現在の位置に一まとめにしたものだという.


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