軽岡峠(隧道)


 PM12:20.隧道着.敢えて述べるが,潰れている.風化し苔蒸したたコンクリートポータルに囲まれた空間には,ほぼいっぱいの土砂が詰まっている.向かって左手の天井が決壊し,風化花崗岩のさらさらした土砂がなだれを打って流れ込んでいる.この光景を見るために,ここまでの行程を経ねばならないというのは,さて,どう思われるだろうか.[2002年の隧道]
 隧道の前はぐちゅぐちゅの水溜りと,腰かけて隧道を眺めるのに最適な倒木.2年前と全く変わらぬ光景であり,恐らくあと数十年は変わらない光景であろう.

 
 ポータルのコンクリートはもとからこう(コンクリート打ちっぱなし)だった訳ではなかったようだ.コンクリート吹き付け+型押しでブロック様の模様が施されていたらしく,その残骸がポータル左上に30×100cm程のシマとなって残っている.ポータル上部には銘板を留めていたと思われるボルトが四本,虚しく空を留めている.まさか化粧コンクリートと一緒に落ちたのではあるまい.この世界のどこかに保管されていることを願う.

 坑内向かって左手には側溝が作られている.今となっては水の排出も何もあったものではなく,コンクリート製のどこでも見かける例の蓋がかえって場違いだ.崩壊口から覗くコンクリート巻き立ては素人が見ても不安になりそうな厚さであって,しかもそれは直接風化花崗岩に接している.完成当初から浸透した水にさらされていたのだろう.もちろん,巻き立てには鉄筋など入ってはいない.壊れるべくして壊れたようなものではないか.

 さて,隧道がこのような状況であるから,当然ながらここを抜けることはできない .幸いなこと(?)に峰はすぐそこであり,この峰を越えて向こう側に出ることができる.ただし,そこには篠竹の海が待っている.しかも,かさばる自転車つきだ.
 以前と同じく,右手の石組の上を伝う.すぐに篠竹に阻まれる.斜面に生える篠竹は,登る者に対してねずみ返しの機能を発揮する.前回の調査では反対側から登ってきて,この斜面を下ったのだからまだ良かった.今回は脆に鼠となって返されてしまう訳だ.しかもこちら側の斜面の方が,篠竹の密度も自然勾配も上だ.篠竹のベクトル,勾配のベクトル,2つのGradientに逆らって登らねばならない.
 ペダルに引っかかった竹を振り解けば,今度はドロップハンドルの内側に巻き込んでしまう.引き抜いたと思ったら竹がスーパーローに入っていて,海老反りになった不安定な体勢で腹筋を使わねばならぬ.莫大なエネルギーが消費される.

 やっとポータル上に至る.ポータル上部には不思議な溝.まるで排水溝だが,実際にそれとして機能していたのだろうか.などと考える余裕もないまま,続きを急ぐ.かなりもがいて行程の半分ほどまで行ったが,そこから先はさらに勾配がきつくなって,もうどう仕様も無くなってしまう.仕方なく,タブーを犯して篠竹地帯の道普請.まさかこんなところを通る人間なんているはずもなかろう.報告者以外に.

 峠近辺は特に念入りにしたおかげで,横からの峠の写真を撮ることができた.このピークがかつて軽岡峠として利用されていたかはわからないが,電信柱の残骸と思われる木柱が残っている.文字が書かれているようにも見受けられるが,それはキクイムシの食事の跡だ.側面に針金が打ちつけられており,これからしても人工物であることは証明される.書き忘れたが,先程登ってきた隧道右手の石組の上には電信柱用の碍子が落ちていた.この柱との関連が濃厚である.[2002年:鞍部を横から撮影]

 鞍部から北の篠竹は薄い.下り方向でもあるので楽だ.だが,前回辿ったはずの隧道左手の斜面がさらに崩壊して,斜度70度の傾斜になっている.しかもさらさらした風化花崗岩.これでは下れない.幸い,こちらにはもう一つのルートがある.自転車が少し犠牲になるが,先に崖をすべり落ちてもらって,後から人間も追う.そうして,隧道天井に開いた穴から,隧道口に降り立つ.

 敢えて言を重ねるが,崩壊している.激しく崩れて行き抜けになった坑内天井.溢れ出す土砂に,全断面積の20%でしかつながっていない坑内.そして周囲の緑に融け込むコンクリートポータル.軽岡峠隧道坑口.PM1:20.

 ポータル正面には不規則な弧を描いて木が埋め込まれている.のちに写真で見て気付いた通り,ポータルは木筋だ.ただしアーチというにはあまりに不規則で,適当に放り込んでみました的な雰囲気がしないでもない.崩壊した天井からも覗いているそれは,ちょうど鉄道の枕木のような色形をしている.ポータル面に対して垂直に突き出ているが,それより後ろ,隧道内部の巻立て天井には構造的な関与が見られない.ポータルの強度を増すためだけのようであり,事実そうして,ポータルだけが残っている.

 今度は隧道の外に目を転じてみよう.ポータルの左右から長く尾を引く石垣が伸び─但しその大部分は土砂に埋もれるか崩れるかしている─,向かって左手のそれには小さな石段が設えられている.その上には畳4畳ほどの空間.ここがかつて,「軽岡峠の辻堂」が置かれていた場所だ.
 慶長元和の頃,六厩の了宗寺を建てた名工が,その残り材で作った地蔵堂.御堂の格子は千鳥格子の技法をもって作られており,一見しただけではどこをどう組んだものか解らない細工の妙が,往来の評判となっていたという.隧道が機能していた昭和36年までは,この位置にあった.新軽岡峠の建設に伴って新峠口に移され,今は六厩のパーキングエリア内に移設されている(右写真.辻堂はこの中に収められている.千鳥格子の妙については考察で改めて述べたい.なお.この辻堂が軽岡峠の隧道の六厩口にあったことは,小林幹著「洋杖と袴」に記されている).
 この階段をあがった右手に人工物らしい石柱が立っていたが,見事に苔蒸していて何なのか解らず.あるいは旗立てか何かだったのかも知れない.この他に残されていた人工物は,四面に白い陶板が埋め込まれたコンクリート柱が一つ.道端に無造作に転がされていた.陶板は砕けていてさっぱりだが,「岐阜縣」の県有地を示す標柱だったのかも知れぬ.現国道に似たものが多く見受けられた(ただしこちらは2面のみであって,もちろん「県」である).


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