キリズシのトンネル(隧道)


 山にこだますマニアの叫び.矩形断面であることを驚くにはちゃんとした訳がある.通常,素堀の隧道であっても,天井はアーチ形に仕上げられるものだ.地山の圧力に拮抗するための経験側,明文化されないCommon sense.意図的に矩形断面が取られることはほとんどなく,報告者の知る限り,矩形断面の素堀り隧道は島根県隠岐島にある福浦隧道くらいのものである.それが,ここまで鋭いそれが,しかも明治3年からこうして在るという事実.これが叫ばずにいられようか.
 しかも,でかい.車道化計画の調査があったときに,市の道路課の職員がこれを見て「このままでも2t車が通れるわな」と宣ったそうだが,確かにそれ位の規模である.

 入口の右隅には地蔵様がぽつり.昨今の若者よろしく,地べたに直に座り込んでいる.その真上の壁に掘り込んだ穴があり,かつてはそこが定位置だったようだ.反対側の壁にも似たような穴がいくつかあるが,10〜15cmほどの小さなもので,蝋燭か何かを立てていたものかも知れない.あるいは暗い隧道を抜けるため,自由に使える行灯が掛けてあったのかも知れぬ━━━━━━ちょうど横断歩道の旗のように.それも廃れてしまった文化だが━━━.似たような穴は宇佐側出口にも見られた.

 壁は凝灰岩であり一面に鑿跡が残っている.垂直の側壁を目で追って行くと,断面の左上隅で地質が変化している.天井は,大石峠や片ケ瀬隧道でも見たような,やや軟らかい火山灰の堆積層だ.さすがにこの部分はいくらか崩壊しているようだが,それでもなおこの断面を保っているのは奇跡的ですらある.この地質の境目があったために矩形断面が生まれたのだろう.

 四角に誘われ,隧道内へ.常の素堀り隧道にはない,不思議な感覚がする.入口から数十mほど入った地点から矩形ではなくなり,普通の素堀りに近い断面に.出口の灯かりも見えているが,その灯かりはいまいる場所からズレた軸の上にある.両側から掘削して,途中で行き違えたのを補正したのだろう.





 足下は踏み締められてカチカチになった土.赤ん坊の頭ほどの石がぽこぽこと露出しているが,そのどれもが磨耗して,つるつるになっている.いっそのこと路面も平らにすれば良かっただろうに,と思わないでもないが,当時の人々はそこまで気にしなかったに違いない.




 宇佐側口.やはり矩形である.出口の向こうは孟宗竹の竹薮.枯れた竹が幾重にも折り重なっていて,竹が苦手な報告者───鉈で切れないからね───にとっては戦慄の光景である.当然,宇佐側の道を下る積もりでここまで来た報告者だったが,状況によっては引き帰さざるを得ない.特に今回は荷物付きだし,九人ヶ塔へも行かねばならぬ.状況検分のために分け入っていくが,思った通りの酷い竹薮であって,泣く泣く諦める.道幅はあるものの,それ一杯の竹の藪なのである.これでは宇佐に出る頃には日が暮れてしまう.

   そのかわり,重要なものを発見した.隧道建設の記念碑である.資料では「宇佐側の麓にあり」とあったので,もっと下流にあるかと思っていたのだが,隧道出口のわずか先であった.

此路本懸于嶺頭阪急土滑人苦馬痛焉當王政一新之秋欲扶其疲労近隣里正相謀聚財使石工穿山腹洞口丈餘洞中数百歩道漸平坦輸□採薪牛馬不知喘汗之爰實千古之一快□也因畧記其功績以告将來銘曰
王化布洽民徳恤窮 爰竭人力以補天功
明治三年庚午秋 白稚山人撰

(この道はもともと嶺を越えるものだったが,坂は急で土も滑べり,人馬はとても苦労していた.それを改善するために,王政が改まった年━━━明治元年━━━の秋に,近隣の里の者たちが,資金を出し合い,石工に山腹を穿たせてた.洞の口は丈あまり,長さは数百歩の立派なものだ.これによって道は平坦となり,牛馬も喘ぐことなく物を運び薪を背負って行き来できるようになった.まさに千年に一度の大事業(?)である.それを記念し,将来のためにこうして略記を記す.)

 「王政一新之秋」.わずか六文字にさまざまな思いがよぎる.幕藩体制が崩壊し,新しい政治体系が───殆ど一夜にして───できあがった,明治維新という転機.人々もそれに鋭く反応し,何かをせずにはいられなかったのであろう.

   もう一つ,気になるものを発見した.宇佐側出口に向かって右手の壁,鑿蹟がびっしりついた一角を平に磨いて,そこに文字が彫られていたのである.文字は欠けたり掠れたり,はたまたイタズラ書きかと思える文字に隠れたりしていて,はっきりと読むことはできない.文字の配置からして道標か何かのような感じもするが,正確なところは不明である.ここに何と彫られていたのか調べることも,135年を経た今となっては,不可能であろう.


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