九人ヶ塔隧道(アプローチ)


■調査 Experiment

 九人ヶ塔隧道のある院内町(現在は宇佐市と合併)は,石橋の町として有名な町である.そもそも大分県は石橋架橋の盛んな土地柄であったが,その中でも特に集中しているのがこの町であり,町を縦貫する恵良川の水系だ.町内にある石橋の総数は60とも70とも言われ,その多くは明治〜昭和初期にかけられている,当然,近代土木遺産に選ばれているものも多い.

 報告者は宇佐市街の方から国道387号を南下した.院内町に入って初めて目にした石橋は鳥居橋(近代土木遺産Aランク).傍らの解説看板によれば大正5年竣工で、5連のアーチは町内で最大.すらりと伸びた細身の橋脚は14m近くもある.昭和26年にこの地を襲った大水害では,多くの人家が流され被害に遭ったというが,この鳥居橋は微動だにしなかったそうである.このような見事な石橋だが,実は対岸の小学校への通学路として作られたものだというから驚きだ.

 国道はさらに南へ.九州自動車道を潜って恵良川右岸に移ると,ほんの少しだけ勾配をあげていく.現県道の橋はさすがに普通のアーチ橋だが,そこから見下ろす恵良川にはさりげなく石橋が架かっている.単一アーチの非常に大きなスパンの石橋───帰って調べてみると櫛田橋という名前で,町の文化財にもなっていない───である.このような大きな石橋が,さもさりげなくそこにある姿が,院内町という町の底深さを物語っているように思った.

 今回の調査では院内町中心部まで至るものではないため,これ以上の橋を紹介することはできない.石橋がお好きな方は,ぜひとも一度この町を訪れることをおすすめする.

 いくつかの小さな集落を通って二日市へ.昭和初期,この沿線には「豊州鉄道」という鉄道が敷かれていた.二日市はその終着駅があった町.いまは寂れてしまって当時の面影もない.安心院町へ向かう県道がここで分岐し,左手へと登っていく.この道のピークが,かつて九人ヶ塔峠と呼ばれた場所だ.

 登り始めてすぐに,左手に住宅が見え,そちらに向かう車道が分岐する.2車線幅の風化したアスファルト.サイドラインのマーキングもまた激しく風化している.旧県道である.現道は直線で一気に登って行く道であり,報告者の苦手とする道であるので,大人しく低きに流れることにする.このルートは2車線幅の旧道というだけで,他に見所というべき見所はない.
 次に車の往来に出会うのは峠の直前である.合流点からすぐそこに現トンネルが見えているが,この時はちょうど災害復旧工事の最中であって,隧道周辺は片側交互通行になっていた.こちら側からのアプローチは後回しにして,一旦向こう側に抜けることにする.現トンネルは昭和52年3月竣工である.

 トンネルを抜けて30mも下れば,右手に分岐する道がある.これが九人ヶ塔隧道東口へつながる道.ただしそちらへ向かう前に,分岐の反対側に大きな石碑があるのを発見した.「重松柳策翁之碑」とあり建之の年は明治四十余三年とある.裏には翁の功績が記されていたが,銀行設立などで町の発展に寄与した人物であるらしい.帰ってgoogle氏に訪ねてみたが,地元の石には刻まれても,webにその名が刻まれるような人物ではなかったようだ.

 改めて九人ヶ塔隧道へ向かう.アスファルトは分岐直後で途切れてしまい,残りは砂利が多めの地道になる.すぐに右手にガードレール・バリケード.九人ヶ塔隧道がその向こうで息を潜めている.


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