九人ヶ塔隧道(東側坑口)


 この隧道については,旧道倶樂部大分県支部のエヌ氏に事前調査をお願いしていた.下はその時に撮影されたもので,4月半ばの隧道の写真である.少々故障があって,その写真を入手したのは報告者の調査の前日であったのだが,これを見た瞬間にたまげたことが一つある.要石が3つあるのである.

 通常,アーチの最頂部には1個の要石がはめ込まれる.左右から迫石を積み上げていき,最後に上から要石をくさびとして打ち込むのだ.同時に要石は装飾の意味も兼ねており,さまざな工夫が凝らされるものだが,3つの石で要石を構成している例は初めて見た.材料力学的な要求からなのか,装飾のためなのかわからない.ただ,帯石がアーチ環のすぐ上を通っているため,左右の要石の位置に他の迫石と同じサイズのものをはめ込むと,中途半端な隙間が開いてしまうことになる.ここを要石然とし帯石で抑え付けることで強度を高める意図があったのかも知れない.そんなことを熱くエヌ氏に語った報告者だったが,ものの見事に呆れられた.

 そうしていま,目の前に,3つの要石を持つ九人ヶ塔隧道.すべてが凝灰岩の切石で出来ている.まさに石工の技術とトンネル王国・大分の威信の融合である.精緻に削られ組まれたアーチ環.それを取り巻く布積みの壁面もまた寸分の狂いもなく,大きな損傷も見られない.金網でがっちり閉じられているのが唯一惜しまれるところだ.全く隙間がないために,上を乗り越えることも、下を潜ることもできない───そもそもそれって道義的にどうよ?という話はさて置き───.

 隧道内には電気が引かれ,入り口に電気メーターが設置されていた.金網越しに隧道内を覗くと,反対側の坑口付近に棚がしつらえられているのが見える.何かの倉庫として利用されているらしい.坑道は総石積みのように思えるが,中央のあたりが白くもやがかっていて,完全に石巻なのか素掘りの部分があるのか確信が持てぬ.

 あれこれ考えた結果.カメラの能力に頼ることにした.シャッタースピードを限りなく遅くして,長時間露光で撮影したのが次の写真である.

 中央付近の暗がりに,くっきりと石組が写った. Year!総切石積みだ!これで評価ポイントが+1された.

 さて,最後はこいつの竣工年を調べなければならない.扁額は枯れた笹とそれに巻き付いた蔦によって覆われ,その隙間からかろうじて「道隧塔ヶ人九」と書かれてあるらしいことが判るだけだ.特殊装備の使用と撤収には少々時間がかかるため,できればポータル周辺の草刈りだけで済ませたいと思っていた報告者だったが,ここにきて考えを改めざるを得なくなる.これだけ大量の枯れ笹をナタで切り払うのは,事実上不可能だ.

 坑口付近の斜面は谷積みの石垣になっていて,とてもではないが登ることができない.先程のガードレールバリケード付近から,ポータル上へ登る道を探る.5月も末の野山には,固く伸び切った茨の刺が満ちている.その中を何とか道普譜して漸近する.ポータルの上はすぐさま土の斜面になっていて.3mほど上にロープがかけられそうな木を見付けた.それでも直径5cm程度の,頼りない潅木でしかない.

 ロープをかけ,竹笹の中を無理矢理下る.ポータルまで結構な距離があり,ひょっとしたら地面まで届かないんではないかと心配したものの,実際には丁度良い位の長さであった.笹の弾力に逆らってガサガサ,ワリワリ.扁額の右側にぶらさがった.

 右書きで「九人ヶ塔隧道」.この距離でこの額を見たのは,竣工後,報告者が初めてかも知れない.そしてその苦労に報いるかのように,隧道名の下に刻まれていたのは「大正二年竣功」という六文字.二が三でないことを確認する指が震えた.
 大正二年という時期は,ちょうど町内の石橋造りが最盛期を迎えた時期に重なる.恐らく石橋を築いた石工も,この隧道建設に携わったことだろう.お天日様の日の光のもと,多くの人の目に触れる橋が「陽」であるならば,地底を貫き,廃れてしまえば斯様なまでに無様な扱いをされる隧道は「陰」である.そうして報告者は,そんな日陰者のほうが好きだ.


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