■考察 Discussion まず,九人ヶ峠,一人ヶ峠という変わった峠名について.さまざまな由来があるようだが,いずれも帰着するのは戦国時代の物語のようである.地元の郷土史家・安部正孝氏の著述からその由来を紹介したいが,前説が少々長く必要のようである. 室町末期から戦国時代にかけての院内・安心院周辺は,豊後を治める大友氏,豊前の大内氏との勢力が拮抗した境界線であり,たびたび大きな戦が起こっている.引治二年(1556)には大友義鎮(後の宗麟)が一万二千騎を率いて,大内氏の勢力圏であった安心院盆地に攻め入った.盆地の南端に位置する竜王城が,大内氏臣下の宇都宮長秀が守る竜王城であった.
城は大友氏の手中に落ち,降伏した大内氏側の軍勢のなかから,安心院地頭であった安心院公正━━━のちに大友宗麟の「麟」の字を戴いて「麟生」と名乗る━━━が竜王城主として抜擢されることになる.大友義鎮はさらに一人ヶ峠,九人ヶ峠を越えて,現宇佐市院内町の妙見山山頂にあった妙見城も攻め落とした.妙見城には大友氏の重臣であった田原親賢(紹忍)が置かれた.
田原親賢は大友氏の下にあって,最も大きな勢力を誇ったという,宗麟が日向の島津氏を攻めた耳川の戦い
1578)でも陣頭指揮を執ったとされる.しかし親賢はこの戦に大敗し,妙見城に蟄居させられる. この謀叛にはもう一つきっかけがあるとされる.それが,九人ヶ塔峠と一人ヶ塔峠の由来に関係する部分だ. 「これに先立って田原紹忍の謀略があった。安心院麟生の長子千代松公糺に長男千代鶴丸があり七歳を迎えた。お祝と共に対面を妙見城に求めた.公糺の妻は実は紹忍の娘であった。妙見城で対面の帰途,大字香下字道舘で伏兵により暗殺された。付添いの家臣は豪の臣と見え、傷つきながら櫛野村の一人が峠まで逃れ主君の死を大音声で告げ絶命した。主君の帰りを今や遅しと待つ九人峠上の家臣は主君守護失敗の責任を取り一〇人中、一人は止むなく竜王城に戻ったが九人は腹かき切って失せた。」
すなわち九人ヶ塔峠で九人が切腹し,一人だけが越えて帰ったから一人ヶ塔峠,なのである. 安部氏の提示してくられた話に付け加えることがあるとするならば,九人ヶ塔の「塔」は恐らく峠の「トウ」であろう,ということだけである.峠は古くは「たお」「たわ」といい,各地にその痕跡が残っている.本総覧にも収録の大石峠も読みは「おしがとう」であり,立地的にも近い.九人峠,一人峠がいつのまにか塔を取り込んで,今の形になったものと思える.
さて,話をずっと巻戻して,そもそも何故5月の末に大分へ隧道巡りへ行かねばならなかったのかという話.ORJの企画が地下で進行真っ最中のある日.岡山大学の馬場先生からメールを戴いた.近代土木遺産の件でお世話になった先生である.メールには土木史学を修める大学教授陣の名前が並び,その末席に何故か自分の名前が混じっていた,何事かと魂消たものだが,何でもこの夏に「日本の近代土木遺産」が再版されるとのことで,その最終校正をするのだという.そうして自分も,校正を託されてしまったのだった.期限は,6月中旬迄.
という訳で,九人ヶ塔隧道は土木遺産リストに掲載されることになった.大正期の総切石積トンネル,笠石・帯石,要石が3つ.金網で閉鎖されている=現在は道として機能していないことが惜しまれたが,それでも,Cランク入りを果たした.出典には「ORRの道路調査報告書」が載った. その後,2007年に福岡の自転車乗り氏が訪問し,その時に写された内部写真とともに「日本の廃道」へご寄稿いただいた.その成果は日本の廃道第18号に掲載されている.pdf形式なのでより高精細な写真をお楽しみいただけるはずである(その他院内町南部の旧隧道の紹介もあり). また,2008年には海苔氏によって九人ヶ塔隧道の“旧隧道”が発見されている.大正2年の旧隧道にさらに古い隧道があるのが驚きだし,報告者も想像だにしていなかったのだが,それが大分県の本性というものなのかも知れない.また旧隧道があったればこそ,石造りの立派な隧道が設けられたのだろう.
■参考文献 References
■謝辞 Acknowledgement |
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