|行政:大分県日田市〜山国町標高:450m
|1/25000地形図:深耶馬渓(中津16号-2)調査:2002年9月


■背景 Background

 大石峠.

 思えば,この峠を超える旧道に出会うために走り続けているのかも知れない.報告者が本格的に走り始めた1996年の夏,トンネルであるという予備知識以外に何も持ち合わせていなかったところにこの峠に出会った.旧道に対するイメージを払拭するに充分のインパクトであり.そして,そのインパクトを上回る峠は,未だに見つからない.
 大石峠と書いて「おしがとう」と読む.大分県日田市と山国町との間にある奥耶馬トンネルのさらに上にあるトンネル.トンネルというよりも「洞穴」とか「洞門」と呼んだほうがしっくりくるような,そんな素堀りのトンネルだ.

 しかも,崩壊寸前の.

■調査 Experiment


 旧道へ行くには西側からがわかりやすい.トンネルの向かって左手を登っていく舗装が峠へ至るものである.わずかばかりのアスファルトののちは,しばらくコンクリートの簡易舗装が続く.右手にわずかばかりの畑が見え始め,100mほどで二又の分岐が現れる.ここでどっちに行くか迷う必要はない.左手にもう見えているのだ.それが.


 暗緑と灰褐色のカオスに縁取られた漆黒の穴.それが旧大石峠隧道である.

 隧道自体は車がすれ違えるかというほどの幅と,それに見合った高さを有しているが,その隧道へ向かう道は一車線幅しかない.アンバランスな印象を受けるが,それは決して交通量対策でも施工者の奇矯によるものでもない.石灰質の非常に脆い崖を掘り抜いているため,自然に崩落を起こして広がっているのだ.その痕跡は,滑らかに湾曲した入口周囲ーーーこの場合ポータルと言うべきではなさそうだーーーに如実に現れている.


 トンネル内も落盤が激しく,堆積した土砂が波打っている.トンネル前後の道よりも内部の床のほうが明らかに高いのはそのせいだろう.壁際にはかつてこのトンネルを支えていたと思われる木組みが残っているが,これも土砂に埋もれ,現在の路面からわずかに露出しているばかりである.ふと視線を上げれば,今にも落ちてきそうな大岩が土質の天井から顔を覗かせている.通り抜けるには(自転車でも)かなりの勇気を必要とするであろう.この崩壊が崩壊し尽くした姿を時おり想像してみるのだが,それが現実になるのは案外近い将来のことかも知れぬ.この点では四国の当別峠が一歩先を行っている.


 東側はトンネル口を抜け,同じように緑と褐色に囲まれた切り通しを抜ける.周囲の地形から察するに,かなりの範囲を掘り起こした上で隧道を穿ったようである.

 

 

 

 左に曲がるカーブを抜ければ,粗れ気味の杉林を経て,奥耶馬トンネル・耶馬渓側の上部を通る舗装道へと出てくる.道はこの先,現国道212号に沿って下るものと,字大石峠の集落を経由して山国町守実へ向かうものとに分かれていく.

■考察 Discussion

 今日では国道212号の真上に位置するが,実はこのトンネルが国道212号であった期間はない.そもそも日田と耶馬渓,ひいては九州の一中心であった豊前とをつなぐ道としては,この峠の西にある伏木峠が古くから使われていた.江戸時代には日田の豪商の出費で石畳道が作られ,1.2kmに渡って現存するそれが「歴史の道」に指定されているようなエリート・ルートである.一方の大石峠は明治18年,馬車や人力車も通ることのできる道として開削され,長く伏木峠が担ってきた役割を一手に引き受けるようになった.しかしそれも,大正初期に伏木を通過する車道が完成するまでの20数年間だけの栄華であった.昭和50年代に奥耶馬トンネルとその前後を抜く国道・花月バイパスが完成するまでは,国道旧道でもなく,主要道でもなく,ただの道として空しく年を重ねていくことになる.勿論,国道旧道に「昇格」したところで何の特典がある訳でもないのだが.

 こんな姿の大石峠ではあるが,実は今でも立派に役目を果している.何度目かにこの峠を訪れた時,一人の女性が歩いて越えて来るのに出会った.まさかこんな所へ人が来るまいと思っていただけに驚いたのだが,字大石峠に住むこの方は,西側にある畑へ通うためにこのトンネルを利用しているのだという.登りの途中で見てきたあの畑だ.昔は多くの人が同じような畑作をしていたというが,次々とやめていき,今では自分だけだと教えてくれた.「国道を行くより便利やきねえ」と屈託なく語るこの方のためにも,この旧道にはまだまだ頑張ってもらいたいものである.

■参考文献 References
  • 日田市三十年史, 日田市三十年史発刊委員会,昭和49年(1974)
  • 山国町郷土誌叢書 第九集 山国明治年表, 山国町誌刊行会編,昭和60年?(1985?)

 

 

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